なぜ提案していない勉強会が立ち上がったのか
また、仕事の関係でつきあいのある人と雑談している際に、
「先日の飲み会で勉強会をやってみようかという話が出ましたよね。あれから時々思い出しては考えてるんですけど、月1回くらいのペースなら現実的だし、思い切ってスタートするのもよいのではないかと思うんですけど」
と言われたことがある。
じつは、私がしばらく前に飲み会の席で話したのは、ある人が異業種交流会のような勉強会をやっていて、自分は話題提供者として呼ばれて出かけたということだけなのだ。自分たちで勉強会を立ち上げようということなど言っていない。
だが、ここで重要なのは、記憶の正確さを競うことではない。この記憶のスレ違いは、相手の欲求を見事に反映している。私から異業種交流的な勉強会の話を聞いて、それはおもしろそうだと興味をもって繰り返し思い出しているうちに、自分もやってみたいという気持ちが強まってきたのだろう。それがやがて私との間で勉強会を立ち上げたいという話が出たという記憶になっていったと考えられる。
こちらが同調する気がない場合には、自分はおもしろそうだと思って話したけど、現実的に考えるとちょっと難しいというように、やんわりと断ればいいし、わざわざ記憶の誤りを指摘しなくてもよいだろう。もし賛同する気持ちがあるなら、せっかくの相手の気持ちを尊重して、やはり記憶の誤りには触れずに、一緒に立ち上げの相談をしていけばよいだろう。
お金に執着する人には、お金がこう見えている

記憶のスレ違いの背後に、欲求と知覚の関係が潜んでいることもある。同じものを見ていても、その人の欲求の状態によって、見えているものが違っているのだ。
たとえば、昼食をとったばかりの満腹な人たちと、朝食も昼食も抜いた空腹な人たちに、何だかよくわからない曖昧な映像をつぎつぎに見せて、それぞれ何に見えるかを尋ねる実験がある。
その結果、空腹な人たちの方が食べ物を答えることが多いことがわかった。お腹がすいていると、曖昧な形のものが食べ物に見えやすいのである。
お金の大きさを推測させる実験もある。その結果わかったのは、お金に対する執着が強いほど、お金が大きく見えているということだった。
こうしたことから言えるのは、その人の欲求によって、またそのときの欲求の状態によって、同じものを見ても、見え方が違っているということである。
記憶というのは、知覚したものを心に刻む心の機能である。知覚が欲求によって歪んでいれば、記憶も当然歪むことになる。記憶のスレ違いの背後には、このように欲求状態が人によって異なるために「見たこと」「聞いたこと」にズレが生じるといったメカニズムが働いているのである。