日本の事実調査チームとの
面談でも真実が言えない
次の私たちの「任務」は、同年9月末に日本から派遣されてきた事実調査チームとの面談への対応だった。この時、事前に与えられた指示は3つだった。
1つ目は拉致されたことは認めていいが、どこの機関によるものかは明らかにするなということだった。すでに日朝首脳会談で金正日総書記が拉致を認める発言をした以上、「行方不明者」としての入国経緯を「証言」する必要はなくなっていた(編集部注/蓮池さんは、「漂流したところを北朝鮮の船に救助された」というウソの証言をしろと、当初北朝鮮側から命じられていた)。
ただ、北朝鮮側は拉致の首謀者について「特殊機関の一部」とだけ説明していたため、それに合わせる形で機関名を伏せさせた。日本側に真相を知るうえでの多くの手がかりを与えてしまうと彼らは憂慮したのだろう。
2つ目は拉致が指導部とは関係のない、末端の人間たちによって行なわれた印象を与えろということだった。そのために、最初地方で暮らしていた私たちが、ある時「党の配慮」で平壌に移り住んだという噓を言うように指示された。
一部の「妄動主義者たち」によって拉致され、地方に隠されていた私たちが、その後すべてを知った党の指導部によって発見され、首都で暮らせるように「善処」されたという筋書きだ。
3つめの指示は、前から準備していた「日本には帰りたくない。家族とは平壌で会いたい」という意思を確実に伝えろということだった。
2002年9月29日、事実調査チームとの面談の場がもたれた。主に責任者の齋木昭隆外務省参事官が質問し、私たちがそれに答える形で進行した。
まず、私たちが蓮池薫、奥土祐木子本人であることを確かめる作業があり、調査チームによる入念な事前調査や、写真撮影、録音が許されたことによって、比較的容易に確認されたようだった。
その時、小学校の頃の友人の名前を聞かれて私が答えると、齋木氏は軽くうなずいたのを記憶している。
日本に帰りたいのに
帰りたいと言えない苦悩
次いで拉致された状況や北朝鮮での生活経緯については、事前に指示されたとおりに答えた。踏み込んだ質問には、「知らない」「後日話す」と答えればよかったので、大きな問題はなかった。