激しいやりとりになったのは、私たちが日本に帰国するかしないかの問題だった。齋木氏は、拉致されていながら、どうして日本に帰らないのかと強く詰め寄ってきた。
私が帰国するのが怖いと答えても、日本では皆があなたたちを歓迎するだろう、20年以上待ち続けている親の気持ちも考えてほしいと言う。
まさに正論だった。
しかし、正論であるがゆえに、私は苛立ちを感じた。私たちの24年が、「帰りましょう」と言われて、「はい、帰ります」と言えるほど、単純なものではないことをどうして理解してくれないのかという思いだった。
だが、そんな本音を出すことはできなかった。私は事前に準備していたとおりに、「日本の過去の問題」すなわち、日本が昔、朝鮮民族に大きな災難をもたらしたことを持ち出して反論した。私たちの帰国とは、直接関係のない「主張」だったが、政治的話題にすり替えて逃れるしかなかったのだ。
何とか私たちは「3つ目の指示」を「遂行」した。家族向けのビデオ収録でも、日本には行かないという姿勢を貫いた。
ただ、こうして事実調査チームとの面談を終えてみると、残ったのは安堵の思いだけではなかった。心には本音を話せなかったことへの虚しさや悔しさも強く残った。
だが、そんな揺れ動く感情に浸ってもいられなかった。平壌に家族を迎え入れる、次の「任務」が待っていたのだ。
帰国できたからといって
素直には喜べない
この「両親との再会」でも私たちには気の重いことがあった。祖父母をどうやって子どもたちに会わせるか。
自分が日本人であることも両親が拉致されてきたことも知らない子どもたちに、突然の日本人祖父母の訪問をどうやって説明するのか――悩んだすえに、在日朝鮮人の祖父母が祖国に24年ぶりに息子や娘に会いにやってくる、今までその存在を知らせなかったのは、「秘密機関にいる者としてのルール」だったと、それまで子どもたちに対してよく口にしていた常套句をここでも使うことにしたのだった。