かつて修氏がスズキ(当時は鈴木自動車工業)の社長に就任した1978年の売上高は3000億円台だったが、修氏は「3兆円超え企業」を掲げ、カリスマ的な経営手腕を発揮して業績を伸ばし、実際にその目標を実現させた。
トヨタと同じく創業家である鈴木家の長男として生まれた俊宏社長は、このカリスマ経営者である父の修氏と身近に接してきただけに、ワンマンの「修流経営」はできないと、早くから覚悟していたであろう。
筆者は、修氏と40年以上も取材やそれ以外でお付き合いをしてきたし、俊宏社長のこともよく知っている。だが、両者のタイプは全く違うと感じる。真面目な人柄の俊宏社長は修流をむしろ“反面教師”とすることもあるだろうし、本人がカリスマ的ワンマンタイプではないからこそ、「チームスズキ」を前面に打ち出しているともいえる。
祖父の鈴木俊三氏(2代目社長)、父の修氏のいずれも鈴木家の娘婿だったが、俊宏社長は創業家の嫡男である。東京理科大学大学院理工学研究科を修了してデンソー(当時の日本電装)に入社し、約10年後にスズキに入社した。修氏は後継の社長を在任中に何人か選んだが、さまざまなアクシデントがあり、結局、修体制は約40年にもわたり長期化した。それでも、15年6月に“帝王学”をじっくりと学ばせた俊宏氏を社長に就任させた。
そして、俊宏社長が就任してからすでに10年が経過している。修氏が健在な限り「スズキは鈴木修」というイメージが常にまとわりついてきたが、その中で俊宏社長は、修氏が会長、相談役へと徐々に経営の第一線から離れていく中で、トップとしての経験を積み重ね、「修流経営」を吸収しながら「俊宏流」へ切り替えてきた。いまや、俊宏流が軌道に乗ってきたように筆者は感じる。22年からは日本自動車工業会副会長に就任して、自動車業界のけん引役としての経験も積んでいる。
スズキの30年代への生き残りに向けた道は決して平坦ではない。米国・中国の四輪事業をすでに撤退していることから、トランプ関税や中国市場の低迷などの余波を受けず、“有利”と見られるスズキであっても、世界的な経済の混乱から減益への危機感を強めて社内を引き締めていると聞く。
加えて9月22日には22年ぶりの刷新となる「Sマーク」の新エンブレムを発表した。まさに「鈴木修のスズキ」に決別して新時代に挑戦する気概を示したものだといえよう。「インド一本足打法」と揶揄(やゆ)されても、インドを世界戦略重要基地のベースとする現在の戦略をさらに飛躍させ、「鈴木俊宏体制」によって新たな世界技術・販売戦略を開拓し、「スズキファン」を拡大させることに期待したい。
(佃モビリティ総研代表 佃 義夫)