MIのイメージは「渋谷幕張シンガポール校」
――渋谷幕張シンガポール校(当時)には10年以上赴任されていましたね。
井上 34歳のとき、シンガポールにアジアで初めての日本人高校をつくるということで、ワクワクしてその立ち上げに携わりました。開校した時にはまだ校舎が間に合わず、現地の幼稚園の一部を間借りして50人の1期生でスタート。2学期には校舎が完成しました。渋幕での経験をベースに教育カリキュラムを作成しました。
最初の3年間は学年主任をしながら、近隣国のマレーシア、インドネシア、タイ、香港、台湾と生徒募集に駆けずり回っていました。修学旅行などに合わせてオーストラリア西端のパースや中国の上海、北京にも足を延ばしました。訪問をすると、不思議と生徒が入学してくれるようになりました。同時に私自身がどんどんエネルギッシュなアジアの喧騒の中に引き込まれていき、気が付けば13年が過ぎていました。
――こちらでも営業経験が生かされている(笑)。駐在員のご子弟が中心となりますね。
[聞き手]森上展安(もりがみ・のぶやす)
森上教育研究所代表
1953年岡山生まれ。早稲田大学法学部卒。学習塾「ぶQ」の塾長を経て、1988年森上教育研究所を設立。40年にわたり中学受験を見つめてきた第一人者。父母向けセミナー「わが子が伸びる親の『技』研究会」を主宰している。
井上 生徒の半分超はシンガポール在住で、現地の日本人学校からも多く入学しました。1期の卒業生65人のうち、8人が筑波や千葉、お茶の水女子など国公立大学に現役合格しました。早慶や上智の合格者も出ました。直前の2か月半の間、日本の関係校の寮で合宿をして、センター試験・一般受験に臨みました。
85人が卒業した2期生からは東京大学合格者が3人出ました。東京外語大学にも2人、国立の医学部医学科にも合格者が出ました。この結果のおかげで定員をその後充足することができました。
――前回、1人目の東大合格者がとても重要だとおっしゃっていましたが、それが開校4年目に実現してしまうとは幸先がよい。
井上 1学年100~120人ほどいる生徒の半分近くは校内の学生寮での生活でした。現地の教員も皆若手だったこともあり熱心で、午後9時から受験のための夜間講習もやりました。
ところが1990年代後半、バブル経済の崩壊に伴い日系企業が撤退、330~340人ほどいた全校生徒が数年で260人まで減ってしまいました。当時私は教頭を務めていましたが、シンガポール校は現地では会社として設立され、独立採算でしたので、厳しい状況に直面しました。
――91年の開校からまだ10年もたっていない段階で大変な事態でした。
井上 この後21世紀に入り、少しずつ日本経済が立ち直り始めたころ、当時の早稲田大学の奥島孝康総長から「一緒にやりませんか」と田村哲夫校長に話がありました。渋谷教育学園と早稲田大学の合弁企業を設立することになり、そのためには早稲田大学の全学部長の承諾が必要ということで、学部長の皆さんが一団となってシンガポール校に視察にいらっしゃいました。その時に、学校の現状についてのプレゼンを担当しましたが、ものすごく緊張したことを覚えています。







