前出のジョギングの例に、私の想像でいくらか文脈を肉づけしてみよう。いまは週末。あなたは、マラソン大会に向けたトレーニングを始めたばかりだ。今日はほかに、誰かに対して約束している用事はない。このようなケースでは、時間が足りなくなった場合は、距離を減らすより、時間を少し増やす(つまり、スケジュールを変更する)ほうが合理的だろう。
時間が足りないとき、どのように対処するのが妥当かは、状況によって変わる面が大きい。複雑極まる現実世界では、さまざまな方法論を組み合わせることが最善の解決策の場合もある。
私が著書を編集するためのタイムボックスで経験したことは、その一例と言える。ご想像のとおり、私は、5つの章の編集をおこなうのに大きなタイムボックスをひとつ設け、それを細分化して、それぞれの章の編集のための15分もしくは30分の小さなタイムボックスを設定した。ところが、実際に作業を始めると、スケジュールから遅れ始めた。
その時点で、私にはいくつかの選択肢があった。一部の章の編集を別の日に延期して、課題のスコープを減らすという選択肢もあったし、あまり勤勉に作業しすぎないことにして、クオリティを減らすという選択肢もあった。しかし、このとき私は、タイムボックスを延長することを選んだ。ほかの3つの要素のいずれかを変更するのではなく、時間を変更することがいちばん妥当だと思ったのだ。
クオリティをおとさずに
スピードを上げることは可能か?
課題を進めるスピードを速めるべきだと主張することは、近年あまりはやらない。その類いの主張に眉をひそめる人も多い。今日、私たちはただでさえ疲労困憊しており、負担をこれ以上増やすのではなく、むしろ減らすべきだ、というのである。
メンタルヘルスの重要性は私も理解しているし、燃え尽き(バーンアウト)がメンタルヘルスを悪化させる大きな要因だという主張にも賛同する。というより、タイムボクシングの大きな利点のひとつは、そうした疲弊を和らげられることにある。
しかしその反面、ときには、速いスピードで前に進むことを楽しく感じる場合もある。とくに、自分で自分にタイムトライアルを課した場合には、それを楽しいと感じることが多いだろう。







