これはいわば、選択における客観性を重視する態度から主観重視へのシフト、あるいはDX一辺倒からTX(Thinking Transformation)重視の姿勢へのシフトだといってもいいでしょう。

 個人の選択にもまったく同じことがいえます。

 自分のものであろうと他者のものであろうと、過去の成功例やデータばかりには頼っていられないのです。いい選択をし、前に進むためには、何が正しいかを自分で考えて決めるしかありません。

富も挑戦も停滞する令和は
まさしくゼロ・サム時代

 ゼロ・サム時代というのは、もともとはアメリカの経済学者レスター・カール・サロー(1938~2016)が提唱した「ゼロ・サム社会」という概念を参考にした、私の造語です。

 ゼロ・サムとは、「経済成長が停止することで、富の総量が一定となり、そのせいで誰かが得をすると、別の誰かが損をするという状態」を意味する言葉であり、経済に限らず、「ゼロ・サムゲーム」といった表現で、一般的にも用いられています。

 私はこれを、現代日本社会全体の特徴としてとらえています。「令和」を「零和」と書けば、まさにゼロ・サムを意味する……というのは出来すぎのような気がしますが、とりわけ令和の時代は、ゼロ・サムが極まったようにも感じます。

 経済成長は停滞し、パイが小さくなることで、文字通りのゼロ・サムゲームが行われているからです。

 しかもこれは経済だけの問題ではありません。

 新しいことにチャレンジしようという機運が高まらないので、何事も枠が広がらないのです。

 どんな職業も、なれる人の枠は決まっていますし、結婚できる人の数も限定的です。

 昭和の時代は、今から見れば不適切でハラスメントまがいのことも多かったわけですが、少なくともみなチャレンジ精神には溢れていたような気がします。

 これに対し令和は、不適切さを取り除きお行儀はよくなりましたが、チャレンジ精神まで失ってしまったような気がしてなりません。

「こんなことをしたら批判されるかも」「失敗したらどうしよう」と思い悩むうちに、結局何も行動しないという結論に達してしまうのです。