そんな地域で経営を続ける徳武産業の歴史は、事業構造転換と販路複線化の歴史といえる。現在こそ自社ブランド商品で確固たる地位を築いているが、十河孝男会長が1984年に社長に就いたときは、売り上げの95%を下請け仕事が占めていた。しかもその95%は、たった1社からのたった1製品だった。

 他の産業でコスト競争力を高めるために海外に生産拠点が移り始めていることを知っていた十河会長は、自社が受注している仕事も近いうちに海外に生産拠点が移ると確信していた。

 そこで、新事業の必要性を他の経営陣に訴えたものの、彼らは「いままで20年間、変わらなかった。そんなことは起きない」と聞く耳を持たなかったという。

 それでも動く必要があると十河会長は考え、自社が一番になれる可能性があるものとして「旅行用スリッパ」「ルームシューズ」「ファッションポーチ」の3つを選び出した。製造経験がなかったにもかかわらず、旅行用スリッパでは、旅行用品を手掛けるショップが全国にあったJTBに提案した。

 また、ルームシューズは通販のトップ企業だったセシールや千趣会などに持ち込んだ。いずれもその分野で一番を目指せる相手だと判断した会社だった。この提案が実り、徳武産業は大企業へのOEM(相手先ブランドによる生産)メーカーへと転換した。

「高齢者が履ける靴を作って」
開発中に思い知ったこととは?

 そして、社長就任3年目に下請け仕事をもらっていた会社から海外移転の通告を受けた。1年後に発注量を3分の1減らし、2年後も同じだけ減らし、3年後にはゼロにするというものだった。

 その後はOEMメーカーとして成長を続けていった徳武産業だが、十河会長には思うところがあった。取引先の担当者が変わるたびに商品や取引の方向性が大きく変わり、売り上げや利益の変動が激しかったのだ。

 また、新しい担当者に心無い言葉をぶつけられて悔しい思いもした。そのため、「自分たちのブランドで勝負できるメーカーになれないものか」と考えるようになっていた。