「可愛い子には旅をさせよ。」

「鞭を惜しめば子どもは駄目になる。」

 子どもが快を求めると、怠け者、わがまま、自分勝手、利己主義などと非難され、快自体が罪悪であると教えられる。

 学校でもこの理念が根底をなしている。子どもたちは、意義もわからず、興味も持てず、苦痛なだけの学習や諸活動に従事しなければならない。これらを拒否しようとすれば不安や罪悪感を持つよう説諭され、実際罰が与えられる。

 楽しむとは快感を味わうことである。

 快感は生命の源であり、価値の源泉である。

 快体験は自己価値感をもたらし、不快体験は無価値感をもたらす。

 無価値感の強い人は快感を犠牲にしがちであり、そのためにいっそう無価値感を強めてしまう。

 無価値感の強い人は、快感に対する恐れがあり、快体験に没頭できない。

 宗教も快楽を禁じる。仏教では、快感への欲求が人間を苦しめるものとして、これを煩悩と呼ぶ。快楽への欲求を捨てることこそが、平穏な心に至る道だと説く。私たちの存在の源泉である性的快感を最も根源的な罪としてとらえ、原罪と呼ぶ宗教もある。

快楽を堪能できない人は
好きなものすらわからない

 親もまたこれまで述べてきたような環境で育てられたので、親自身が多かれ少なかれ快体験に罪意識や恐れを抱いている。このために、子どもが楽しんでいるとつい不安になってしまい、水を差す行動をする。

 好きなテレビ番組に夢中になっていると、「宿題終わったの?」と声をかける。趣味に時間を使っていると、「そんなことより勉強しなさい」と要求する。こうしたことから、子どもは純粋に快感に浸る気持ちが妨害される。ある女子学生は書いている。

「私には“これが好き”と言えるものがない。まわりの友達がアイドルに夢中になれるのがうらやましい。」

 別な学生は次のように書いている。

「子どもの頃、夏休みなど長期休暇でやることがなかった。やりたいと思っていることがあっても、それほどやりたいとは思わないので、体が動かない。だんだん気持ちが落ち込んでいく。土日も嫌で、学校のある日の方がよかった。」