快感とは「今、ここ」を堪能することである。

 快楽を堪能できない人は、「今、ここ」を生きることができない。こうした人にとって、「今」とは、常に「後々」のための準備時間である。だから、いつも何かに追い立てられているようで、気持ちを休ませることができない。

 食事をすれば食欲は消失する。友人と楽しい時間を持てば、孤独感に悩まされることはない。このように、人は満たされた欲求に拘泥することはない。逆に、満たされない欲求ほど強くなり、その欲求に執着するようになる。自然な快感を求める衝動が過度に抑制されると、歪んだ形での快を求める衝動に転化する。

 快の衝動が満足させられないと、年齢不相応の快に執着するようになる。たとえば、幼い時期に母親に対し甘える欲求が満たされないと、大人になっても甘えたい衝動から離れられなくなる。幼い頃からいろいろな習い事をさせられ、親の期待に応えようとがんばってきた女子学生は言う。「赤ん坊はいいな、何もしないでも愛してもらえるし、世話をしてもらえるから。」

心身の健康を害している人が
陥りやすい逸脱した行動

 中年期や老年期になっても、もっぱら自分に尽くしてくれることを求めるだけで、相手を庇護してあげることや、若い人の成長を援助することに関心を移せない人も退行状態にあるといえる。

 満たされない快への衝動は、強迫的傾向を帯びる。この典型が依存症である。依存症には、アルコール依存症、薬物依存症、買い物依存症、ギャンブル依存症、セックス依存症、恋愛依存症等々がある。

 摂食障害も特定の快に過度に執着した状態である。過食症は食べる快感への過度の依存状態であり、拒食症は、自分の身体が痩せることや食欲を抑制する充実感などに過度の快感を得ている状態である。

 依存症には精神的要因が大きく関係している。親との葛藤を抱えているとか、生活上の大きなストレスを持つなどである。しかし、依存症になりやすいかどうかには、遺伝的要因も関係する。たとえば、依存症になる人は、ドーパミンの受容体密度が低いために快感回路が活性化しにくいという傾向が見出されている。

 健全な欲求満足(=快体験)が禁止されると、憎しみや敵意が生じ、いじめや暴力などで快感を得ようとすることがある。それだけでなく、禁じられたこと自体への反抗が快感をもたらすようになる。校則破りなどはその典型である。あるいは、過度に禁欲的な家庭の子が、援助交際をするとか、放縦な性行為に走るなどである。

 快への衝動が非常に複雑で屈折した形になる場合もある。たとえば、快体験を放棄することで快を得ようとする禁欲主義や、自己犠牲の生き方が快感になる人もいる。苦痛や屈辱が性的快感をもたらすようになる人もいる。この人は、性的快感という罪を身体的苦痛によって償おうとするかのようである。さらには、自責感だけでは合理化できず自傷行為に走る人もいる。