21時ぐらいに一回寝て、夜中の2時とか3時に起きる。そこからリビングに集まってロウソクの灯りのもとで家族などと語りあったのちに、また4時ぐらいにそれぞれの寝室に戻り朝まで眠る。こんな睡眠習慣が、工業社会に突入する前までは結構当たり前のように世界のあちこちで根づいていたようです。ちょっと楽しそうですよね。

 このように、常識とは動的なものです。これからも、「君ってまだ自分で車の運転してるの?自動運転のほうが安全なのに。変わってるね」などと新しい常識が続々と出現することでしょう。このような前提に立つと、社会との向き合い方が変わっていきます。

 つまり、あなたが何か腑に落ちないことや納得できないことが生じたときに、全てをあなたの責任とするのではなく、「ひょっとしたら社会の方がおかしいのかもしれない」という考えを持つことができるのです。

「フォーマルな場ではネクタイ」
その常識を一度疑ってみると…?

「集団的保守主義」という言葉があります。これは、状況が変わっても「これまでずっと、このやり方でやってきたから」と、過去のパターンに集団が囚われてしまう傾向のことです。

 たとえば、どうして男性はフォーマルな場でネクタイをするのでしょうか?

 冷静な目で見ると、自らの首を絞めるような行為をすること自体、なんだか不自然ではないでしょうか(と私はいつも感じてしまいます)。

 ネクタイの起源をたどると、もともとは、17世紀のクロアチア人の騎兵隊が身にまとっていたスカーフにたどりつくのですが、兵士たちの無事を願って、げんかつぎとして巻いていたようです。これを見たフランスのルイ14世が気に入り、やがて宮廷で大流行したという説があります。

 つまり、そもそもは、「フォーマルな場でまとう」ものでは全くなかったわけです。それがいろいろな偶然や文脈が重なっていって、意図せず今のネクタイ文化に落ち着いています。

 では、今ネクタイをしている人に「なんでしてるんですか?」と尋ねても、おそらくは「みんながしているから」「常識だから」「しないと失礼になるシーンがあるから」などと要領を得ない答えが返ってくるのではないでしょうか。これは集団的保守主義そのものです。