「支那軍の暴戻(ぼうれい)を膺懲(ようちょう)し以て南京政府(国民政府)の反省を促す為今や断固たる措置をとる」

 要するにこれは「悪事ばかりをする中国軍を懲らしめ、中国政府の反省を促すために強硬な手段に出る」という意味だ。この毅然とした態度が、国民から拍手喝采された。これ以降、「暴支膺懲」は流行語のように使われるようになり、近衛の国民的人気も高まっていた(読売新聞 『検証 戦争責任』)。

 しかし、実はこの日中戦争については政府内でも慎重な意見が多く、近衛も望んでいなかった。広大な大陸へ侵攻しても物資の補給が難しく、多くの兵士が犠牲にはなるのは目に見えていた。そもそも「満州事変」によって、中国に勝手に乗り込んで好き放題やっていたのは日本の方なので、抗日運動が盛り上がるのも仕方がない部分があった。現代に例えるのなら、アフガニスタンに駐留するアメリカ軍を、タリバンがしつこく襲撃していたようなものだ。

 そんな「本音を言えばやりたくない戦争」に近衛は勇ましく突っ込んだ。よく言われるのは、中国の戦力を過小評価していてすぐに降参するとナメていたとか、軍部を抑えきれなくなっていたなどだが、忘れてはいけないのは、プロパガンダによる「世論」の盛り上がりもあったことだ

 当時の日本は、今の中国と同じく映画を用いたプロパガンダが花盛りで、「生意気な中国に、世界一優秀な日本軍がガツンと懲らしめる」というサクセスストーリーを、国民が無性に欲しがっていたのである。

 わかりやすいのは、1932年に公開されてヒットした映画「爆弾三勇士」だ。これは同年にあった第一次上海事変で、敵陣に突入するために爆弾を担いで自爆死を遂げた3人の兵士の実話を基に制作されたものだ。この映画が記録的な大ヒットとなり、「肉弾三勇士の歌」なるものまでもつくられて、空前の「三勇士ブーム」が訪れる。

《3月3日付東朝朝刊は「興行界を挙げて三勇士時代」の見出しで、各映画会社の製作進行状況のほか、歌舞伎座以外にも、新派が明治座公演で取り上げ、榎本健一が活躍していた浅草のレビュー劇団「カジノ・フォーリー」も演目に入れると伝えている。さらに浪曲、琵琶、文楽、長唄、浄瑠璃……。取り上げない芸能はないくらい、競って上演した》(文春オンライン 2020年3月1日)

 このような愛国プロパガンダが浸透した数年後、盧溝橋事件や通州事件が伝えられた。「軍は横暴な中国を懲らしめろ」という人々の怒りが最高潮に達したというのは容易に想像できよう。