ただ、この戦争を煽るという行為は売り上げアップと引き換えに社会にとんでもない弊害をもたらす、メディアにとって「禁断の果実」でもある。
戦争を煽るということは、自国の正義や、自国民の勇敢さや優秀さを煽るということなので、読者や視聴者にとってこれほどの「快感」はない。
大谷翔平選手がアメリカで賞賛されたり、オリンピックで日本代表選手が金メダルラッシュとなったりするのを聞いて、歓喜し、日本人であることを誇らしげに思わない人はいないはずだ。それと同じで、「日本が悪の国家を叩き潰す」というストーリーを煽られると、「もっとちょうだい」と麻薬のように依存してしまう。結果、敵国への憎悪を声高に叫ぶ好戦的な国民が増えてしまうのだ。
それがよくわかるのが、1937年の日中戦争だ。朝日新聞を筆頭に国内メディアは「暴支膺懲」(ぼうしようちょう 悪い中国を懲らしめるの意)とこの戦争を正義の戦いだとふれ回った。そのうちに、煽っているメディアよりも、煽られていた国民の方の熱量が高くなって、「戦争=正義」でこれに異論を唱える者は「軟弱」「弱腰」と排除されるようになってしまったのである。
極東国際軍事裁判で東條英機の弁護人などを務めた政治家・弁護士の清瀬一郎は、1938年の「時代を搏つ」(金星堂)の中で、この当時の「世論」をこう記している。
《其の當時の世論は『暴支膺懲』の四字であつた。九月頃になつた。ソ聯の國民政府支援が露骨となつた。世間は「容共抗日」の蒋政権を打倒せよと叫んだのである》
当時は日本にはこういう“勇ましいムード”が大衆に急速に広まっていった。それがよくわかるのが、青少年向け書籍「一番乗り武勇伝 支那事変少年軍談」(金子士郎 講談社 1938年)である。
劇画調の表紙を開くと、上海派遣軍司令官を務めた松井石根直筆の書が掲載されている。この本は、勇猛果敢な日本軍が「恨み深い暴虐支膺軍」や「不法支那軍」と壮絶な死闘を繰り広げながら、南京城陥落を目指すという戦記ものだ。「血だるま二人三脚」「決死の突撃四勇士」という章のタイトルからもわかるように、多くの日本兵たちが戦いのなかで銃弾に倒れ、「天皇陛下万歳」と叫んで戦死していく。
ただ、それは「悲劇」ではなく、以下のように胸に熱い感動が込み上げる「美談」として少年たちに伝えられている。







