大日本産業報国会は、本来は労働組合に対抗する存在となることが設立目的であった。しかしアンドルー・ゴードン(編集部注/歴史学者。専門は、日本近現代史、労働史)は、結果的にはこの組織が全国の労働者に自分たちの処遇を話し合う機会を与え、ブルーカラーとホワイトカラー双方が入会したため、その団結につながったという、意図せざる結果(戦後の労働組合活動につながるという効果)があった可能性を指摘している(注2)。
そして第二次大戦の敗戦が決定的な変化をもたらす。
終戦直後に盛り上がる労働組合運動
「工員と職員の団結」がテーマに
戦後の日本を統治した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は労働組合を擁護、労働組合法、労働関係調整法、労働基準法などの労働三法も相次いで制定された。
終戦直後、労働組合運動は大きく盛り上がり、事実上、経営側から経営権も奪取するほどの勢いをみせた。
そして労働組合の2大テーマは、「工員と職員の団結」「身分制度の廃止」に設定された。日本鋼管、石川島造船所などで、工員組合と職員組合は工職混合組合に一本化され、食堂や通用門の差別も撤廃された。
1947年から1948年にかけて多くの企業で、工員・職員という名称は撤廃され、従業員という名称に統一された(注3)。
こうしたブルーカラーとホワイトカラーが包摂された労働組合の成立、そしてその平等な取り扱いを目指した労働運動は世界的に日本だけで生じた現象といっても過言ではない。
それにしても、なぜそうした現象が起こったのか。
菅山真次(編集部注/経済学者。東北学院大学経営学部教授)は1947年8月の東京大学社会科学研究所の労働組合への実態調査を分析している。
その分析によると、労働組合のほとんどは企業別に組織され、この時点で工職混合組合の比率は8割を超えている。また工員と職員を一本化する理由に関しては「労働者の本質には職員、労務者の差異は存在しない」「職員も工員も共に従業員であるから、従業員は組合員である」という回答が最も多かったという(注4)。
(注2)同前書 Gordon(1985)
(注3)前掲書 Gordon(1985)
(注4)菅山真次(2011)『「就社」社会の誕生』名古屋大学出版会 p.191.







