以上は「遺体の撮影」にまつわる話だが、「死」自体も日本よりはわずかにカジュアルに捉えられているかもしれない。たとえば欧米の新聞では著名人の死を伝える死亡記事(obituary)が人気コンテンツで、新聞社には死亡記事担当者、あるいは担当部署なるものが設けられるのが一般的らしい。

 そこでは著名人のデータを生前集めて原稿まで用意しておき、亡くなったらすぐに記事を公開できるように準備されているという。

 死亡記事は日本だと「おくやみ欄」や「訃報」に相当するが、欧米の死亡記事は故人の業績を振り返るその文章が淡白でなくやや叙情的で、自然と故人の人柄を偲ばせて読者を惹きつける趣きになっている。

 であるから、日本と欧米を比べると、かなりあいまいな表現だが現状をおおまかに言い表すなら、「死は欧米では触れてはいけないそこそこの禁忌だが、日本ほど禁忌ではない」というくらいであろうか。

 そうした土壌があるためか、欧米の数カ国、特にアメリカにおいて死と寄付は相容れないものでなく、自然に結びつく。遺族の支援のために立ち上げられたクラウドファンディングは成果をよく上げるのである。例えば2021年のアトランタでの銃撃事件では、事件発生から1週間足らずで遺族に2.7億円の寄付が集まっている。

寄付文化が根付く米国
善行は自ら発信するのが美徳

 前段では死と寄付について書いたが、アメリカでは、死を介さずとも至るところで寄付がカジュアルに行われている。

 善行をひけらかさないことを美徳とする日本と違い、アメリカは善行を自ら発信してどんどん共有するのが美徳としているようなところがある。

 日本では寄付を自ら表明すると「売名」とか「偽善」とか「人の不幸に便乗して」などと批判が飛んでくることがあるため(私は日本人の国民性を誇りに思っているが、当該部分はこうして書いてみると嫌な国民性である。笑)、共鳴はさらに控えめになる。とはいえここ数年でその風向きも少し変わってきたであろうか。

 富豪が寄付で公共施設を設立する時、その名を施設に冠する風潮は米国の方が盛んである。スタンフォード大学(正確には鉄道王スタンフォードの早逝した一人息子の名前・スタンフォードジュニアにちなんでいる)、ロックフェラー大学、カーネギー図書館などがそれに当たる。