調べてみますと、この時代は犬の遠吠えの声を「びよ(びょう)」で表わし、犬の普通の鳴き声を「わん」と聞いて、区別していたことが分かります。こうした2種類の犬の声の共存期を経て、やがて「わん」が勝ちを占めて、犬の声と言えば「わん」となり、現在に至ります。
それにしても、なぜ犬の鳴き声が「びよ」から「わん」に変わったのでしょうか?
「びよ」と写すよりも「わん」と写すほうが適切と思えるような変化が、犬の鳴き声そのものの方に起こったのではないか。
というのは、動物学者がこんな報告をしているのです。犬の祖先であるオオカミを捕らえて飼っておくと、家犬(いえいぬ)化して「わん」と聞こえるような吠え方をするようになるというのです。ということは、犬の声も、環境によって変化することがありうる。
では、犬の環境はどう変わったのか?
調べてみますと、江戸時代以前では、犬は、放し飼いです。綱を付けて飼われているのは、猫のほうです。放し飼いの犬はすぐに野生化します。平安時代末期の『今昔物語集』には、夜間に女や子供が野犬に食い殺された話が出てきます。また、鎌倉時代にできた『九相詩絵巻』には、女の死体を、野犬とカラスが食いあさっている様子が描かれています。そうした野生化した犬の声は、闘争的で濁ってドスのきいた吠え声であったと想像されます。「びよ」と濁音で写すのが適切と思われるような吠え声です。
英語では、犬の声は、“bow-wow”ですね。バ行音で写しています。ですから、日本でも、野生化した犬の声を「びよ」「びょう」とバ行音で聞いても不思議はないわけです。
動物の鳴き声の変化から読み解く
日本の文化史と動物との関係
江戸時代から綱を付けて飼われ始めた犬は、縄張りも安定し、高い声で鳴く。それは「わん」と写すのがまことに適切であったと考えられます(注1)。「びよ」から「わん」へという鳴き声を写す言葉の変化は、犬の環境の変化によって引き起こされた鳴き声自体の変化を写し出していたのです。
(注1)…山口仲美「昔の犬は何と鳴く――犬――」(『犬は「びよ」と鳴いていた――日本語は擬音語・擬態語が面白い――』光文社、2002年8月)







