変な人間になってゆくという意味ではない。もちろんそういう人もいるが、苦しみや迷いや葛藤のすえに決断を下し、行動にうつしてきた結果、その人の人生の固有度は20代の頃には考えられなかったぐらいに高まる。そこに人としての自信が宿り、揺るがなくなってゆくという意味だ。

 この年になって気付くのは、若い頃に恐れていた類型的人生などじつはこの世界にただのひとつも存在しないということだ。人は誰しもそれぞれ異なる道を歩むなかで、少しずつ他人とズレながらその人自身になってゆくのである。

 こうして何者でもなかったはずの私がいつしか何者かになっていく。若い頃の選択肢はあくまでシステムの産物ゆえ、選択肢そのものが類型的だった。しかし中年期以降の選択肢はそれまでの生きてきた歩みから立ち上がる選択肢なので固有的だ。

中年になってから感じた
「自由」の正体

『43歳頂点論』書影『43歳頂点論』(角幡唯介、新潮社)

 固有度が高まると自信が深まり惑わなくなり、まわりの目を気にする必要もなくなる(これが中年男性による諸々のハラスメントの原因である気もするのだが、話がややこしくなるのでこれ以上は突っこまない)。不惑とはそういう意味だと私は解している。

 40になると何者かになり惑わなくなる。これが中年の自由の正体だ。それまで行動を押しとどめていた様々なものからの解放。自由になった結果、20代の頃のような自己存在証明のための行動は不必要となり、ギリギリとしたストイシズムからも解放される。

 年齢を重ね、自分というものが固まってきて、自己存在証明が必要なくなると、何かに届こうとして頑張る必要がなくなる。

 そのときはじめて、ただ面白いからそれをやる、という純粋行為の世界が広がる。