『国宝』の立花喜久雄と
『悪人』の清水祐一の類似点

 吉田修一は『国宝』の中で、女形について次のように説明している。

《言ってみれば、からっぽでございます。何かを見ているわけでもなく、何かを考えているわけでもないからっぽの体。しかしそのからっぽの底が、そんじょそこらのからっぽの底とは違い、恐ろしく深いことが誰の目にも明らかなのでございます。〈中略〉

 女形というのは男が女を真似るのではなく、男がいったん女に化けて、その女をも脱ぎ去ったあとに残る形であると。

 とすれば、化けた女をも脱ぎ去った跡はまさにからっぽであるはずなのでございます。》
(『国宝 下 花道篇』朝日文庫)

「からっぽ」であるというたとえは、映画「国宝」でも花井半二郎が、女形として舞台に立ち始めたばかりの喜久雄を、高く評価するセリフとしても使われている。「からっぽの底の深さ」こそ、『国宝』で描かれた女形の存在について考える上で、重要なキーワードだと言えるだろう。

「からっぽ」というたとえは、吉田修一が『悪人』をはじめ過去の作品の登場人物について述べた表現と似ている。

 たとえば吉田は桐野夏生との対談で、『悪人』の祐一の人物像について、次のように説明している。

「ヤンキーというほど自己主張もなく、本当に空っぽというか、小説の中にも書きましたが、校庭に落ちているボールみたいな男なんです」(「小説トリッパー」2007年秋季号「現実のリアルとフィクションの強度」)と。「誰かに蹴ってもらわないと、自分からは動けない。母親に蹴られ、祖母に蹴られ、佳乃、光代に蹴られて」とも。

 周囲から力を加えられないと自分からはなかなか動かない「からっぽ」の存在。このような『悪人』の祐一が持つ特徴は、『国宝』の喜久雄に限らず、『横道世之介』の世之介など、他の吉田の小説の登場人物たちに共通する性格の上での特徴でもある。