しかし、執刀のチャンスはもちろんビデオ教材も乏しかった当時、若い医局員が手術を勉強するには、先輩の手術記録(レシピ)を読み漁り、幕内先生の手術(ソースの味)を「見て盗む」しかない。

 料理の下ごしらえと後片付けも「見習い」の役目だ。

手術中のBGMはいつも
石川さゆりのベストアルバム

 当時の研修医の仕事をすべて紹介すると紙幅が尽きてしまうが、ひとつ思い出すなら、僕たちは飛脚のようにいつも院内を駆け回っていた。何故なら、診療記録やオーダーを端末上で共有するための「電子カルテ」がまだ普及していなかったからだ。

 患者の入院や移動の度、紙カルテの厚い束を病歴室から、分厚いレントゲンフィルムを放射線科から収集しなくてはいけなかった。その日に必要な薬や点滴は、処方箋を印刷し、自分の足で薬局に取りに行く。

「あらゆる医療行為が勉強である」という大義名分のもとに労働力を提供しながら、そのわずかな隙を利用して少しでも手術を見ようと工夫していた。

 ようやく手術室にたどり着くと、いつもBGMが流れていた。適度にリラックスして集中力を高めるために、手術中に音楽を流す外科医は多い。

 ストリーミングサービスがない時代、そのCDを交換するのも研修医の役目だった。しかし幕内教授の選択肢はただひとつ、石川さゆりのベストアルバム。10時間の手術なら10回、しかも毎日聴ける!特に、「さよならの翼」という曲が大のお気に入りだった。

 真実の愛が伝わらず、ついに女性が旅立っていく。かつて一緒だった時間は、私にとっては美しい真実だけれど、あなたにとってはガラクタで過ちだったのね――。そんなセツナイ歌詞を聞き流して、背中越しに真剣に手術を見学していると、突然、「ところで石沢はガラクタ系か、アヤマチ系か、どっちなんだ!?」と話の矛先が向く。

「僕は……何も悪いことをしていません!」

「なんだってェ~、自分じゃ良いことをしてるつもりが、女には最悪なこともあるんだ。ばかモンがぁ!」

 ニヤリと振り向く「神の手」。禅問答のようなやりとりが、今は懐かしい。