赴任は2月。トムはその前に、イギリスに帰って家族と一緒にクリスマスを過ごすことにした。

「そのとき、母に言われたんだ。『家族みんながあなたのシンガポール行きを喜んでいるけれど、あなただけは違うようね』って。母の言うとおりだった」

 1月3日、休暇明けの最初の出勤日に、トムは「これまでの人生で最大級に難しい電話」をかけた。シンガポール法人のCEOに、やはりこの話は断ることにしたと伝えたのだ。トムは今でも、当時の気まずい会話を覚えている。

「まるで別れ話の電話のようだった。原因は私にあると伝えた。彼は電話を切ると、また15分後にかけてきた。『やはり理解できない。私が何かしたのだろうか?』ってね」

 会社の経営パートナーにこの決断を伝えるのも、同じくらい難しかった。彼はトムを裏切り者呼ばわりし、もう信用できないと言い放った。「彼は有言実行だったよ。さんざん冷遇されて、1年後にやっと以前のように受け入れてもらった」とトムは言う。

華やかなキャリアよりも
叶えたい夢を優先した

 何かを断るとき、私たちはどうしてもこう考えてしまう。「なぜわざわざ気まずい状況をつくる必要がある?」「こんなチャンスを棒に振るなんて私はバカなのか?」「友人や同僚の怒りを買ったらどうするんだ?」と。

 しかし、トムの決意は固かった。「当時の私はもう42歳だったが、家族をもって子どもの成長を見守りたいという夢は捨てていなかった」と彼は言う。

「もう大人になった息子がいたけれど、最後に会ったのは彼が2歳のときだ。彼の母親と離婚して、彼女が息子とともに外国に引っ越してしまったからね。シンガポールの仕事を受ければ激務になり、結婚相手を探すような時間はとてもつくれなかっただろう」

 トムはテリー・ライスとは違い、家族との時間を増やすことを選んだわけではない。そもそもその時点では、妻も子どももいなかった。だが、シンガポールの大チャンスをつかめば、家族をもつという夢は遠のくとわかっていた。彼は自分の夢に賭けることにした。