ところが左派、右派を問わずUBI否定派は、批判をするときには基本的に同じタイプの言葉を用いる。効率性、そしてリソース最大化の言語だ。
実際のところ、UBIを批判する人たちの言語は、ランダム化比較試験や、社会を閉じた経済システムとする見方など、推進する人たちの言語ときわめてよく似ている。最適化が約束したものと、実際に最適化がもたらしたものとの乖離に直面しているいま、提案される解決策はさらに最適化を推し進めることだというのだ。
これはなぜだろう?もし私たちがUBIといったものを効率性の言語の外側で評価するとしたら?そうすれば少しちがった問いかけができるかもしれない。
ドルを何かしらの方程式で個人的または社会的有益性に変換できるという考え方をやめてみたらどうか?さらに進んで、「最高の」政策を決める手段として計測を行うという考え方をやめればどうか?計算機を少し下に置いて、そもそも政治は最適な社会を作るためのものでなければならないという考え方をやめたとしたら?それは完全な無政府状態につながるだろうか?
こうした問いかけをするのが難しいのは、それで何かしらの成果が上がるようには思えないからだ。問題に正面から取り組むほうがずっと簡単だし、一般的でもあるからだ。
テスラのような電気自動車のネットワークは、中央集権的な石油経済に代わるものと宣伝され、どこに充電ステーションを設置するか、バッテリーをどう作るか、ソフトウェア・アップデートをどう行うか――ひいては環境への影響がどんな形をとるか、といったことまで最適化しようとしている。
社会問題の「最適」は
計算できるが解決ではない
では、いつ満足するかをどうやって知るのか?どの程度の最適化が「十分」といえるのか?
同じころに提案された、あるアルゴリズムの思考実験は、この問に数学的な解を出そうとするものだ。最適停止問題、一般には秘書問題という名で知られるこの問題は、こう問いかける。ある求人への応募者が列をなして面接を受けにきている場合、いつ面接を打ち切って採用を決定するべきかをどうやって知るのか?







