浅井長政 高野山持明院蔵/Wikimedia Commons(Public Domain)
しかし、幸せは長くは続きません。1570(元亀元)年、信長が越前の朝倉義景を攻めると、長政は長く同盟を結んでいた朝倉の方につき、信長との同盟関係を反故にしました。
こうなると市は、夫と兄の板挟みになって長政との関係も悪くなりそうなものですが、市はその後も長政のもとにとどまりました。この時期に次女の初、三女の江が産まれたとされています。
3年後の1573(天正元)年。長政の居城・小谷城は信長に攻められ落城。市と娘たちは織田家の家臣によって助け出されます。
兄・信長が本能寺に散る
そして再び新たな運命が……
1582(天正10)年、本能寺の変が起きて兄・信長が死亡したのち、清須会議が開かれます。
清須会議では、たった3歳で織田家の後継となった三法師の後見の座を織田信雄と織田信孝が争い、また所領問題などが話し合われました。浅井家滅亡後、織田家に庇護されて暮らしていた市と娘たちの運命は、ここで大きく変わります。
これまでの通説では、秀吉と勝家がそれぞれ市に想いを寄せていて、勝家を味方につけたかった信孝が間に入り、市と勝家との結婚を推し進めたとされていました。しかしこのエピソードは、江戸時代に入ってからの史料にしか見られないため、後年の創作ではないかといわれています。
近年の研究では、市と勝家の結婚は、清須会議の場で取り決められたのではないかとも。柴田勝家が織田家の家臣・堀秀政へ宛てた書状で「羽柴秀吉と話し合った内容に変更はない、お市の方との縁組も予定通り」といった意味のことが書かれていたことから、清須会議の場で秀吉と話し合った結果、この結婚も決まった可能性が高いというのです。
清洲城に立つ信長像。現在の天守の位置ではなく、この像の立つ場所にかつての本丸があったとされる 撮影:今泉慎一(風来堂)
なぜ市と勝家が
結婚することになったのか
ではなぜ、市と勝家が結婚することになったのでしょうか。







