長政のときは生き延びたのに
勝家とはなぜ自害したのか

 黒田基樹氏の著書『お市の方の生涯』では、こうした史料などからも、市は勝家とともに自らも命を絶つ決意をしていたものとしています。

 また、豊臣方の視点で賤ヶ岳の戦いなどを記している『柴田合戦記』に残されている市と勝家の最後のやり取りを取り上げて、市には、「結婚したからには、婚家が滅亡する際にはそれに殉じる考えがあった」としています。

 また、歴史学者のフレデリック・クレインス氏も自身の著作『戦国武家の死生観』で、「武家社会には『家』という概念を中心に、独自の秩序があり、個人はそのなかで役割を果たすことに意味をもっていました」とし、お市の勝家とともに自害するという選択は「彼女の生涯を武家の女性として完結させる行為でした」と、当時の死生観から検証しています。

 浅井家滅亡の際に生き残ったことを「くやしい」と言っているのも、こうした考えに基づいているからでしょう。

 婚家と運命を共にするべきであるという思いがあったと考えると、「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 別れを誘ふ ほととぎすかな」という辞世の句にも、二度も自分の思いに反して生き延びたくはないという、市の強い意志が感じられるような気がします。

柴田勝家像終焉の地・北庄城に立つお市の像
柴田勝家像お市の像のそばには三姉妹もたたずむ

◆◆◆

【関連記事】
>>「「信長の息子2人」の明暗分けた決定的な違いとは?「愚鈍」な信雄は73歳まで生き、「人望がある」信孝は自刃」を読む

>>「信長はなぜ「秀吉」は許し、「佐久間信盛」を追放したのか…〈同じ失敗〉でも明暗を分けた決定的な違い」を読む