最初の夫・長政は、死ぬ間際、ともに自害しようとする市を、娘たちとともに生きるように説得したといわれています。このとき、娘たちはまだ幼く、三女の江は生まれたばかり。市は生きる決断をし、娘たちを連れ兄・信長の元に戻りました。
小谷城内の赤尾屋敷。長政はここで切腹した 撮影:今泉慎一(風来堂)
しかし、市の次女・初に仕えていた人物が伝えた内容を、のちに記録として残した『渓心院文』によると、市は長政とともに死ぬことができなかったことを「くやしい」と言っていたといいます。
長政の死から10年後、北庄城での戦いでの最後の夜、勝家に城から退去するように言われた市は、今度はそれを断りました。前出の『渓心院文』では、そのときの市についてこのように書かれています。
「しばた殿御申すには、御いちさまに御ひめさまがた御同道にて御出なされ候えと、たって御申し候えども、御いちさま仰せには、あざい殿時分出させられさえ御くやしく候に、何とて御出あるべきや、しばた殿御一所との御事に而(以下略)」(黒田基樹『お市の方の生涯』より引用)
つまり、勝家が市に対して、3人の娘とともに北庄城から退去するように強く勧めたが、市は、浅井家滅亡の際に小谷城から退去したことを悔しく思っているので、「退去はしない、勝家とともに死ぬと主張した」というのです。
北庄城跡に立つ柴田勝家像 撮影:今泉慎一(風来堂)







