山崎の戦いで明智光秀を討ち果たし、織田家の中で発言力を高めていた秀吉。それに対する勝家の不満を抑えるための結婚だったという説があります。
織田家家臣である四宿老のなかでも、勝家のみが、織田家との姻戚関係などのつながりがありませんでした。秀吉は信長の五男・秀勝を養嗣子としており、丹羽長秀は信長の兄である織田信広の娘を妻とし、さらに嫡男に信長の娘が嫁ぐことになっていました。また池田恒興は、姻戚関係はないながらも、信長の乳母の息子という強いつながりがあります。
勝家は古くから織田家に仕える重臣でありながら、そうした深い関係はもっていなかったので、パワーバランスの偏りを解消する目的もあったとされます。
また、もうひとつの大きな理由は、清須会議で話し合われた領国分配にありました。
浅井家が滅びた後、秀吉が支配していた長浜領を、勝家に引き渡すことが決まりました。長浜領は、かつては浅井家の領国であったため、勝家に引き渡されることは、浅井家に嫁いでいた市との結婚がセットだったという見方もあるのです。
長く再婚しなかったのは
本人が断っていたから?
信長の小谷城攻めで浅井長政が自害し、市が織田家に戻ったのが1573(天正元)年。夫を亡くしてから、柴田勝家と再婚するまで9年余りもありました。この間、市に再婚話はなかったのでしょうか。
長政が亡くなった後、市と3人の娘たちは信長のおじ・信次(弟の信包という説も)の庇護のもとで暮らしました。信次が戦で亡くなると、信長の庇護下に入ったといわれています。
この時代、婚姻は家同士が同盟関係を結ぶためのものでしたので、未亡人となって実家に戻った市も、再び政略結婚させられてもおかしくありませんでした。しかし市は、信長が再婚を勧めても断っていたという話もあります。
このころの市や三姉妹については詳しい史料が残っていないため事実はわかりませんが、実際、9年近くも織田家の庇護下で暮らしていたことは間違いありません。
長政との別れに
「くやしい」といった理由
二度も戦で夫を亡くした市。それもどちらも、城を包囲された挙句に自害するという悲しい運命でした。







