今年のノーベル平和賞は、オランダ・ハーグに本部を置く国際機関「化学兵器禁止機関(OPCW)」に決定した。最有力視されていたパキスタンのマララちゃんは受賞できなかったわけだ。はっきり言って「なんじゃ、そりゃ?」である。怒りすら覚えている。ノーベル賞委員会は本気で世界平和を実現する気があるのかと、問いただしたいくらいの気分だ。今回は、その怒りの理由を説明しつつ、世界平和実現への(幻想ではなく)現実的な方法論についてお伝えする。

その政治力を正しく使えなかった
ノーベル賞委員会

 そもそも、ノーベル平和賞というアワードは、非常に“ポリティカルな”ものである。環境問題が世界的イシューになれば、環境活動家に「転職」したアル・ゴアに賞を授与しているし、2002年には、イラク攻撃の準備を進めていたブッシュ米大統領への当てつけのように、1980年の大統領選でレーガンに歴史的大敗を期した後、頭の中がお花畑の人権外交家として活動していたジミー・カーターに賞を与えている。

 その他、キッシンジャー、アラファト、佐藤栄作、ゴルバチョフ、アウンサンスーチー、金大中などなど、ひじょうにややこしいというか、デリケートな状況の人物に賞を贈っている。2009年には大統領就任1年目で、まだ何の仕事もしていないオバマに、核兵器廃絶を訴えたというだけの理由で賞を与えている。ちなみに国連(2001年)や欧州連合(2012年)も受賞している。

 ただ、僕はノーベル平和賞がポリティカルであること自体は批判はしない。そもそも、平和の構築という理想そのものが政治的なものだ。したがって、「平和の構築への貢献」という評価自体が政治的になるのは当然だし、むしろノーベル平和賞のように世界的な影響力のあるアワードは、意識的にその政治力を使うべきだと思う。だからこそ、今回、マララちゃんに賞を授与しなかったことに対して、落胆と憤怒と嘆きを感じるわけである。

 なぜか? それはノーベル委員会がその影響力、政治力を正しく世界平和の構築に役立てなかったからだ。ある意味で平和構築のための千載一遇のチャンスを逃したとも言える。それくらい今年のノーベル平和賞は失態であり、失敗だったのだ。

 では、世界平和はどうすれば実現するのか? これは難問だ。核兵器廃絶も必要。化学兵器の廃絶も重要だろう。しかし、核兵器や化学兵器やクラスター爆弾や地雷などの「非人道的」兵器を完全に廃絶できたとしても、戦争はなくならない。そのことは、核兵器や化学兵器はおろか、戦車すら所有していないアフリカ各地の反政府ゲリラが引き起こしている数々の内戦を見れば明らかだ。強力な武器がなければ、竹やりや棍棒でだって人は戦うのだ。

 そもそも「非人道的な兵器」というもの自体が、自己撞着というか、悪いジョークのような言葉だ。「人道的な兵器」というものがこの世に存在するなら見せてもらいたいくらいだが、兵器の存在が世界平和の構築を阻んでいるとノーベル賞委員会が考えているのなら、自らを反省して、まずは近代兵器の源流ともいえるダイナマイトの製造禁止・廃絶を訴えてみたらどうかと思うが、閑話休題。