「三放世代」と
「さとり世代」
──メディア数社を集めて行ったプレス・カンファレンスで、今の韓国の若者たちは「三放世代」と言われているという話が出ました。収入が少なく失業率も高いなかで「結婚、恋愛、出産」の3つを諦めてしまう世代という意味だそうです。そういう人たちが『嫌われる勇気』を受け入れたのではないか、そして「さとり世代」と言われている今の日本の若者と共通点があるのではないかという質問が記者からありました。そのあたりいかがですか?
古賀 もちろん経済的・社会的な世代間格差の存在ゆえ、現状が変えにくいという状況はあるでしょう。日本の場合は「失われた20年」のなかで、生まれてからずっと不景気しか経験していない若者が「さとり世代」であり、韓国の「三放世代」も似たところがあるのかもしれません。そういう人たちが自分の小さな共同体にとどまり、そこで小さな幸せを実感して、それでOKじゃないかとしてきた。しかし心のどこかで「これだけでは足りない」という思いが皆にあったのではないでしょうか。自分のなかに渦巻いていたその疑問が『嫌われる勇気』によって解消されたというか、やはりもう一つ外の共同体に踏み出さなければいけないという意識を呼び起こしたのではないかと思います。
──あの質問は、『嫌われる勇気』が「現状で満足すればいい」といった読み取られ方をしているから、「さとり世代」や「三放世代」に受け入れられたのではないかという主旨だったと思いますが、そうではないだろうということですね?
岸見 アドラーは「普通であることの勇気」を持とうと言っています。「特別によくなろう」とする必要はないと。もしかすると、そうした「特別によくなろう」とする意識がもともと韓国の若者にあったのかもしれません。その気持ちが出鼻をくじかれ、現実的にも世代的にも無理だとなった。「特別によくなろう」とする人は、それがかなわないと一転して「特別に悪くなろう」としがちなのですが、韓国の若者の場合はその方向に走らず、アドラーが言っているのとは違う意味での「普通」、つまり至ってささやかな幸福で満足する方向に進んだのかもしれません。けれど、結局そういう形では満足できないんですよね。
古賀 そうですね。自分が結婚や就職ができないのは、社会が停滞しているからだ、景気が悪いからだと考えるのはとても楽なわけです。しかし本当はそうじゃないよね、というのがアドラー心理学の主張です。それを突きつけられたときに、若い読者の皆さんはショックを受けるでしょう。そこから真剣に問い直す方が一人でもいてくれたら、これはもうその人が日本人であろうと韓国人であろうととても嬉しいですね。
岸見 全員がこの本を受け入れるわけではもちろんありません。ですが、ある壁を超えた人が影響を受け入れてくれることを望みたいですね。