しかし、国は監禁部屋の生活を少しでも快適なものにしようと、壁紙を3日に1回変えたり、音楽を流したり、朝ごはんをたっぷり食べさせたりする工夫をし、それを国民にアピールした。そして、マス・メディアは、監禁部屋で35歳から40歳までの人たちが、すこしでも「マシ」な生活になるような、些末で矮小な工夫がなされたことを、あたかも問題の解決に近づく努力であるかのように報道するようになった。国民はいつのまにか、監禁部屋に閉じ込めること自体を問題にしなくなった。


 つまり、学校という「狭い檻」に入れること自体が問題なのに、「相談しよう」「嫌な相手でも誉めてみよう」「自分の好きなことをしてみなさい」などの解決策を示すのは、「些末で矮小な工夫」に過ぎないということのようだ。

 内藤氏は、実際には現実的に実行可能な教育制度改革に「非現実的」「過激」とレッテルを貼って悲惨な状態を維持することを、愚かな惰性という。

「この『現実的ではない』には三つの解釈が考えられます。一つは、長年の習慣を『あたりまえ』と感じると、それにどんな弊害があっても永遠不滅と思い込むこと。これは、長年監禁され続けた人にとって、逃げることができる状況でも逃げるという選択肢が非現実的になり、あるいは選択肢を思いつくことさえできなくなるのと同じです。第二は、妨害する既存勢力の力が大きいから不可能というもの。しかしこれまでの社会の変化を考えれば、世論や政治はいくらでも変わることがわかります。第三は、学級制度をなくせば学校運営が不可能というもの。これに関してはすでに諸外国で実験済みなので明らかに可能であることがわかります。知り合いの帰国子女の方に、学級制度がない中学校の話を聞いてみてください」(内藤氏)

 とはいえ、有名人のコメントの中でも時として有効なものがある。内藤氏が例として挙げたのは、さかなクンのコメントだ。魚の世界にたとえながら、“環境が整えば”誰もがいじめをする危険性があるという、構造自体の指摘をしている。

いじめに真剣に向き合ってきた
人たちの意見にこそ耳を傾けよ

 今回話を聞いた小森氏と内藤氏。「学校や教育委員会は事実を隠匿する」「いじめ加害者は被害者が自殺しても反省しない」「教師は対策の方法を知らない」「専門知識を持たず、実態を深く掘り下げて考えていないコメンテーターや有名人のコメントは有害ですらある」といった点で、両氏の意見は一致していた。

 繰り返しになるが、いじめ問題は誰もが語りやすいトピックだ。自分自身の経験を持ち出しやすく、誰もが正義感を見せびらかすことができる。しかし、大人たちが感動エピソードで悦に入っているそばで、現実にいじめは起こり続けている。簡単で一面的な「解決策」に飛びつかず、長年問題に向き合っている人たちに耳を傾けるべきではないのだろうか。

 夏休みが終わり、子どもたちの自殺が急激に増えるこのタイミングで、世の大人たちにそのことを改めて問いかけたい。