三菱重工業が大改革に乗り出している。戦後の財閥解体で3つに分割された同社は、1964年に再び1社に統合されたが、その後も全国の事業所は多くの権限や独自の文化を保持し続けた。だが2008年に大宮英明社長が就任後、次々と改革を断行。これを支えた宮永俊一氏が社長就任後、改革路線はさらに猛烈に加速した。かつては、まるで進化が止まった恐竜のごとく低迷した三菱重工を、いかにして変えたのか。そして同社は今後、どこを目指しているのか。宮永社長が語り尽くした。(聞き手/DIAMOND MANAGEMENT FORUM編集室 松本裕樹)
究極のモノづくりは
アートであり事業ではない
――日立製作所との火力発電事業の合弁会社設立、独シーメンスとの製鉄機械事業の合弁会社設立、さらには仏重電大手であるアルストムのエネルギー事業をめぐる米GEとの争奪戦など、三菱重工が大きく変わり始めています。従来、自前主義でさまざまな事業を拡大した結果、「機械のデパート」とまでいわれた御社が、この数年、事業の分離や買収に積極的に乗り出している。なぜいま、これほど大きく方針を転換したのでしょうか。
宮永(以下略):企業が長年かけて培ってきたことを、ある時期に意図して変えようとしても、個人の力ではなかなかできるものではありません。まして、当社のように規模が大きく、非常に長い歴史がある会社の場合は、過去に成功体験があるわけですから、なおさらです。
三菱重工業 社長/CEO
1948年福岡県生まれ。1972年東京大学法学部卒業後、三菱重工業入社。約17年間の広島製作所勤務の後、1999年に機械事業本部重機械部長に就任。2000年、日立製作所との合弁会社である三菱日立製鉄機械の設立に伴い社長就任。成長戦略に目処をつけた。その後、2006年に本社へ戻り、2008年4月に機械・鉄構事業本部長。2011年に副社長兼社長室長となり、大宮英明社長(当時)の右腕として構造改革を行う。2013年に社長就任。約40年ぶりの事務系出身の社長となった。2014年にチーフオフィサー制度導入に伴い、CEOを兼務。
経営の方針が大きく変わったのは、経営陣が意図して変えたからというよりも、むしろ変わらざるをえない必然性が生まれたからというのが正しいのだろうと思います。
――必然性とはどういうことですか。
第二次世界大戦後の復興から高度経済成長期にかけて、当社は大きく成長しました。日本経済の発展の基礎となる電力施設などの社会インフラ、石油コンビナート、造船など、重工業のさまざまな分野で非常にポテンシャルを発揮し、一時期までは安定成長が続きました。
しかし、その後、日本の産業構造は従来の「重厚長大型」から、自動車や電化製品などの「軽薄短小型」へと変化しました。こうした中、当社はなかなか適合できませんでした。
一方、海外に活路を見出そうにも、当社のような重厚長大型の産業は、自動車や家電製品などと異なり参入障壁が非常に高いため、欧米市場には容易に入れませんでした。また、新興国の市場規模もそれほど大きくはありませんでした。
こうした中で、「このままではいけない」という危機感のマグマがたまってきた。私の2代前の社長である佃和夫さん(現相談役)が2003年に社長就任した頃から、会社を改革しなければならないという思いが非常に高まっていき、さらに大宮英明前社長(現会長)が引き継いだのです。
しかし、佃社長の時代は経営的に非常に厳しい時期でした。重病人とは言わないまでも結構な病状でしたから、企業体に改革のメスを入れるだけの体力がなかったのです。
その後、財務面などで多少は体力が回復したことから、大宮社長の時代に改革を本格化したのです。
この時、経営陣は2つのせめぎ合いの中にいました。1つ目の選択肢は現状を受け入れるということ。大きな発展はおそらくないだろうが、しばらくは安定した経営が続くだろう。そして、長く静かに、灯が徐々に消えていくように、会社は衰退していく。そして2つ目の選択肢は、21世紀の成長モデルを模索し、新しい形の三菱重工としての発展を目指すということです。どちらを選ぶかによって、たとえばモノづくりのあり方も大きく変わってきます。
三菱重工は「モノづくりの先端を走る会社」とか「究極のモノづくりをやっている会社」などとよく言われます。しかし「究極のモノづくり」をしているということは、裏返せば、「ほとんど誰もやらないことをやっていること」です。それでも将来の新しい産業の創出につながる挑戦であればよいのですが、我々が得意な分野をどんどん究極の姿にまで追求しているケースが多いのです。
こうして一つのことを極めることはけっして否定されることではありません。伝統工芸、伝統技能、芸術などの世界は、古来、そうやって多くの素晴らしい作品を生み出してきました。
――しかしビジネスの世界で行うべきことではないと。
その通りです。「究極の姿」を追求していくと、それは汎用化とは対極の伝承の世界に入ってしまいます。当社には過去に積み上げてきたいくつもの要素技術があり、おそらく今後も長きにわたり残っていくでしょう。しかし、IT産業や人工知能などの登場により、新たな成長分野がどんどん広がっていく中で、当社が保有する要素技術の重要度はかつてほど大きなシェアを占めているわけではありません。
プライベート・カンパニーとして永続するためには、時代において何らかの重要な役割を担わなければ、その存在感は薄れていきます。「存在感が薄れていく危機感」は経営陣のみならず、多くの社員たちが多かれ少なかれ持っていたと思います。こうした危機感の高まりと、企業体力の回復が進む中、大宮前社長が社長就任した頃から、一気に変革に向けて動き始めたのです。