会社の利益は誰のものか――。この問いに対して、支配的な回答は「株主のもの」であり、それが企業経営を議論するうえでの命題(テーゼ)であった。

榊原清則
中央大学ビジネススクール教授。慶應義塾大学名誉教授。1978年、一橋大学大学院商学研究科博士後期課程満期退学。1990年に一橋大学商学部教授。その後、ロンドン・ビジネス・スクール准教授、慶應義塾大学総合政策学部教授、法政大学大学院イノベーション・マネジメント研究科教授を経て、2014年より現職。商学博士。主要な著書に、『美しい企業 醜い企業』(講談社、1996年)、『キャリア転機の戦略論』(ちくま新書、2004年)、『イノベーションの収益化』(有斐閣、2005年)などがある。

その一方、企業はそこで働く人たちやその家族、下請けやサプライヤーのビジネス・パートナー、事業展開している地域の経済に大きな影響を及ぼしているだけ でなく、「内部不経済の外部経済化」、すなわち、その事業活動によって、従業員や下請けの酷使、環境汚染や生態系の破壊、新たな社会問題などを引き起こし ているにもかかわらず、きちんと償っていないことから、株主以外のステークホルダーにも利益を還元すべきであるという反命題(アンチテーゼ)が登場する。 以来、白黒つけたがるのがビジネス界の常なのか――心理学の研究によると、そういう性質はアダルト・チルドレンの特徴の一つだそうである――株主と従業員、株主と地球環境、株主と公共といった二項対立の議論が繰り返されてきた。
榊原清則氏は、イノベーション研究において日本を代表する存在であり、本インタビューの中で、「会社の二面性」という考え方の下、こうしたテーゼとアンチテーゼの二項対立を止揚(アウフヘーベン)することが、21世紀の経営モデルであり、目指すべき企業像であると述べる。それは、グローバル・スタンダードといわれるアングロサクソン型経営への異議申し立てであり、また21世紀にふさわしい経営モデルの創造にほかならない。何かと日本企業の弱点や問題点ばかりが指摘されるが、榊原氏によれば、この新しい経営モデルに最も近いのが日本企業であるという。その主張に耳を傾けてみたい。(聞き手/DIAMOND MANAGEMENT FORUM編集室 岩崎卓也)

「会社の二面性」と
21世紀にふさわしい経営モデル

――イギリス政府が2012年7月に公表した「ケイ・レビュー」、東京証券取引所が昨2015年6月から適用した「コーポレートガバナンス・コード」では、株主や投資家の利益に限らず、ステークホルダーへの配慮を要請しています。

 私自身の整理はそれとも微妙に違っていて、現実の株式会社はそもそも「二面性」を持っていると考えるべきだという立場です。

 では、会社の二面性とはどういうことか。一方で会社には、利益の獲得とその最大化を目的とし、資本の論理に基づき、事業活動を通じて利益を生み出す機構という側面があります。これまで、経済学者や経営学者の一部をはじめ、少なからぬビジネス・パーソンたちも、そう理解してきました。法が規定する会社もまさにこれに相当します。

 他方で会社は、生きた人間が集まるコミュニティ、あるいは生活空間を有する社会単位でもあります。ありていに言えば、人間の集団としての会社です。言うまでもなく、メンバーたちが働く目的は、株主利益の最大化とは異なっており、みずからの出世、生活の質、自分自身の夢の実現など、個人的なさまざまな願望を含んでいる。

 こうした意味での会社の二面性を前提にするならば、株主のみならず、従業員にも利益を還元することは至極当然のことといえるでしょう。

 さて、こうした会社の二面性という把握は、ドイツの社会学者フェルディナント・テンニースの言うところの「ゲゼルシャフト」(利益社会)と「ゲマインシャフト」(共同社会)、という対概念にも対応しています。

 前者は、まさしく経済ユニットとしての会社であり、また大都市などもその一例です。これらは、利害や経済合理性に基づいて意思決定する組織体といえます。それに対して後者は、社会ユニットとしての会社を意味しており、また家族、友人や仲間、近隣社会なども同様です。会社にはそうした共同体的側面も同時に含まれていて、そのメンバーたちは、感情、人格、価値観などに基づいて結びついています。

 神戸大学名誉教授の加護野忠男先生は、ドイツでの分類論を参照しつつ、利益獲得を目指す手段としての会社を「会社用具説」と呼び、それ自体絶対的な価値を有し、また人々が集まり、協力し合う集団としての会社を「会社制度説」と呼んで、両者を区別しています。この区別も、我々の「会社の二面性」に対応した考え方です。

――2008年のリーマン・ショック以降、マギル大学教授のヘンリー・ミンツバーグ、ニューヨーク市立大学名誉教授のデイビッド・ハーベイなどは、かつて会社はコミュニティでもあったが、いつのまにかその役割が失われてしまったことを指摘し、レッセフェール(市場原理に委ねた自由放任主義)に基づく資本主義に改革が求められているいまこそ、こうしたコミュニティシップを取り戻すべきだと主張しています。

 適切な主張であり、正論だと思います。日本の政治経済システムを研究してきた、ワシントン大学教授のマリー・アンチョルドギーは、自著『日本経済の再設計(注1)』(文眞堂)において、日本は「共同体資本主義」であると述べているように、日本の会社にもまさしく日本文化の一要素である共同体的性格が備わっています。

 私は、会社の二面性には、株主の利益とステークホルダーの利益というだけでなく、「文明」と「文化」という見方もあると考えています。

 司馬遼太郎氏の『アメリカ素描』(新潮社)の中に、次のような記述があります。

「文明は『たれもが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・機能的なもの』をさすのに対し、文化はむしろ不合理的なものであり、特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもので、他に及ぼしがたい。つまりは普遍的でない。(中略)文化とは、日本でいうと、婦人がふすまをあけるとき、両ひざをつき、両手であけるようなものである。立ってあけてもいいという合理主義はここでは成立しえない。不合理さこそ文化の発光物質なのである」(原文ママ)

 文明と文化という二面性から現実の会社について考えてみると、文明は普遍的で広域的、言い換えればグローバリズムです。かたや文化は特殊的で地域的、ですからローカリズムといえます。

 日本産業界を見渡すと、文明のプレッシャーに押され、文化が失われつつあるように見えますが、先ほど申し上げたように、あちらを立てればこれらが立たずというトレード・オフではけっしてなく、文明に傾く、つまりグローバル・スタンダードに従うという道を選択したにすぎない、と見るべきではないでしょうか。

――それは、すでに答えが示されている道でもありますが、成功例もあれば失敗例もあり、実際、企業によって業績や組織能力に格差や違いがあります。

 先ほど挙げた尊敬に値する8社は、繰り返しますが、グローバル・スタンダードに対応しながらも、日本特殊的な経営の特徴を堅持しており、要するに、文明と文化の両側面を併せ持ち、その2つを両立させているのです。

 実は、こうしたグローバリズムとローカリズムの両方を実現している高業績企業は、むろん欧米にも存在しています。

 たとえば、アメリカのゼネラル・エレクトリック(コネチカット州フェアフィールド[注2])やプロクター・アンド・ギャンブル(オハイオ州シンシナティ)、オランダのフィリップス(北ブラバント州アイントホーフェン)、ドイツのシーメンス(バイエルン州ミュンヘン)など、いずれもグローバル企業の代表選手ですが、その一方で、その本拠地の文化や価値観をいまなお色濃く持っている、ローカルな組織体でもあります。

 これらの会社は、事業の国際化やグローバル化を展開することで、競争力と収益性を高める一方、会社の歴史や価値観を育んできた発祥の地の文化的特性を尊重し受け継いでいます。そして、こうした二面性のせめぎ合いから、みずからを進化させているのです。

 こうした両取り企業では、「文化が文明に転化する」可能性、すなわち、彼らの経営モデルがグローバル・スタンドードになる可能性があると考えられます。それは、先ほど申し上げた、市場の審判の結果としてです。

 つまり、資本市場や労働市場では、これからは財務業績のみならず、その背後にある戦略やマネジメントも評価に織り込まれることが予想され、その結果、両取り企業の経営モデルがお手本となり、世界に広がっていく、という未来が十分考えられるからです。

注1)原書はMarie Anchordoguy, Reprogramming Japan: The High Tech Crisis under Communitarian, Cornell University Press, 2005.

注2)前身といわれる「エジソン・ゼネラル・エレクトリック・カンパニー」が登記されたのは ニューヨーク市であり、現在の本社があるコネチカット州フェアフィールドには第二次世界大戦後に移転した。また、コネチカット州が法人税の引き上げを決定 したことを受けて、2016年1月、ボストンのウォーターフロントの再開発地区「イノベーション・ディストリクト」に、新本社所在地を移転することを発表 している。