98年8月、町田は当時ブラウン管が主流だったテレビのディスプレイを「05年までに液晶に置き換える」と宣言。2000年には、女優の吉永小百合を起用した「20世紀に、置いてゆくもの。21世紀に、持ってゆくもの。」という広告を大展開する。21世紀は液晶テレビの時代だと訴えた。
さらに、「世界のシャープ」を目指すことを決めた町田は、04年に世界初の一貫生産体制工場、亀山第1工場を稼働させた。最先端技術の開発から製造までを国内でブラックボックス化する取り組みは、日本のものづくり復活の象徴とたたえられ、当時の首相だった小泉純一郎も視察に訪れた。
その亀山工場で生産された液晶テレビ「アクオス」(写真(4))は、「世界の亀山モデル」というブランド戦略と相まって大ヒット。町田はアクオスの全世界展開も成功させ、ついに「世界のシャープ」の夢は現実のものとなった。
その後、片山が07年7月に堺工場の建設計画を発表。総額約4300億円もの資金をつぎ込んだ巨大液晶パネル生産工場は、09年に稼働を開始した。
堺工場は第10世代と呼ばれる、畳約5畳分もの大きさのガラス基板で液晶パネルの生産が可能で、そのサイズは世界初にして今なお世界最大だ(写真)。60インチの液晶パネルを1カ月間に約57万枚も生産できる高い生産効率を誇る。
液晶ディスプレイがあらゆる場所に使われる。そんな未来を信じていた片山にとって、液晶パネルの大型化とその生産規模の拡大、生産効率の向上は、液晶事業の定石だった。堺工場はそれを実現するための「夢の工場」だった。
液晶事業でわが世の春を謳歌し、一度はつかんだ「世界のシャープ」の夢。しかし、事態は突如暗転する。08年秋のリーマンショックで液晶パネルの需要が激減してしまったのだ。その後シャープは経営判断でミスを重ねる一方、首脳陣が人事抗争に明け暮れる体たらくで経営危機に陥っていくのは、すでに触れた通りである。
3代の社長が社運を懸けた液晶事業は、もはや「つわものどもが夢の跡」。片山が信じた2054年の未来は、シャープにはあまりに遠過ぎた。(敬称略)