昨今ではSDGsやESG投資、脱二酸化炭素といったキーワードが、毎日ニュースや新聞記事に現れる。ほんの一昔前には、こうした考え方は一部の「進歩的な知識人」や「左翼系の人々」による、現実を無視したファッションとしての理想論、絵に書いた餅、きれいごと、もっと言えば偽善や欺瞞であるとさえ、世間に受け取られていたのではないだろうか。しかし、精緻で実際的な理論の積み重ねと、経済学の正統的な研究を背景に、SDGsのような考え方を早くから提唱していた経済学者が日本にいた。今回は、宇沢弘文の『社会的共通資本』を採り上げ、それが流行をなぞるだけの表面的な「サステナビリティ」や「脱成長」を説く言説とどう出自が違うのか、どのような理論的な枠組みから生まれ、どのような意義を持つものなのかを考えてみたい。

偉大な経済学者、宇沢弘文の
思考的到達点とは

ノーベル賞確実と言われた日本の経済学者が予言した「豊かな社会」の真実『社会的共通資本』宇沢弘文著(岩波新書)

 アメリカで大変な業績を収めて日本に帰ってきた偉大な研究者が東大にいるらしい――。ほとんど大学に行かなかったエセ経済学部生の私でさえも、宇沢弘文という名前は知っていた。若い人は信じられないかもしれないが、私が大学生だった1985年当時の経済学は、マルクス経済学か近代経済学の2種類しかなかった。いわゆる「マル経」と「近経」である。

 マルクス経済学は、経済学というよりも社会哲学である。マルクスによれば、資本主義経済は「進歩して」社会主義革命へと弁証法的に発展していくと説かれる。マルクス主義経済学は、このような歴史と社会の法則を学ぶものだった。

 一方近代経済学は、統計とモデルを使って数学的に効用計算を行い、人々の経済行動を分析するもので、現在多くの人が持っている経済学のイメージにほぼ合致する。宇沢は後者の、最先端の近代経済学の大権威だった。

 ところが宇沢が帰国後に取り組んだのは、社会経済のあるべき姿の追及であり、経済体制の歴史的な展開の研究であった。ただし、一見同様の主張をしているかに見える、多くの思想家や社会学者や経済学者と決定的に違うのは、経済学的なモデルと数学的な思考に基づいた緻密な研究成果の裏付けを持っている点である。本書は宇沢の思考的到達点を一般向けに解説したものである。