障害者がふつうにレストランで食事ができる。障害者が行きたいところにふつうに行ける。もちろん街中でもふつうにトイレに行ける。障害者もふつうに仕事ができる。障害者もふつうにスポーツができる。プロレスだってできる。恋愛もセックスもふつうにできる。そのような、さまざまな場面で、さまざまな意味で「ふつう」にできること。できるような社会を作ること。それが、いまの障害者支援の方向性であり、社会が向かうべき方向なのだろう。

 だからこそ思う。障害者スポーツもまた「ふつう」にできないのか。オリンピックとパラリンピックを統合できないのか――と。

感動ポルノにしないために

 企業のオフィスでも、健常者と障害者が「ふつうに」同じオフィスで仕事をする方向に向かっている時代だ。スポーツの祭典で健常者と障害者を分ける必要がどこにあるのだろう。想像してみてほしいのだが、もしオリンピックが、白人オリンピックと有色人種オリンピックに分かれて開催されているとしたら、明らかな人種差別だとして厳しく糾弾されるだろう。あるいは、男子オリンピックと女子オリンピックが別々の大会として開催されていたら、明らかな女性差別である。なのに、なぜ、健常者と障害者は「別もの」なのか。

 以前書いた記事の読者にも、誤解している人間がいたようなので念のために述べておくが、僕は何も「健常者も障害者も、同じ土俵で戦え」と言っているわけではない。競技の公平性を保つために、男子種目と女子種目が分かれている。あるいは、格闘技などは体重別の階級制になっている。競技である以上、種目別にレギュレーションを設けることは、当然必要だ。種目によっては、健常者と障害者を分ける必要もある。しかし車椅子バスケのように、現状でも健常者と障害者が混じって競技しているような種目もある。そのような種目は、健常者、障害者の区別なく出場できるようにすればよい。つまり、種目別にレギュレーションを考えればよいだけの話だ。

 そもそもオリンピック憲章の精神から言っても、パラリンピックとオリンピックは統合すべきだ。その憲章には「スポーツの実践はひとつの人権である」と明記されている。もちろん、障害者にも人権がある。その障害者の人権の考え方も、実は時代によって変化しているが、前述のとおり、いまの時代は「ふつう」に向かっている。「ふつう」の実現こそが障害者の人権であると言える。だからこそ、障害者スポーツもまた「ふつう」に行うべきなのだ。

 障害者スポーツを感動ポルノにしないためにも、パラリンピックは廃止してオリンピックと統合すべきである。もちろん、2020年にいきなり統合することは、時間的、予算的な制約から難しいことはわかっている。しかし、統合に向けての何かの第一歩を踏み出すことはできるはずだ。東京五輪まであと4年。4年しかないと言えるが、4年あるとも言える。その4年間は、統合に向けての議論には十分な時間だと思う。

 1964年の東京大会で、パラリンピックという言葉を生み出した日本人だからこそ、2020年大会を契機に議論する。その役目はあると思う。