どん底で救ってくれた「本の中の偉人」

斎藤 どのようにして打開していったのでしょう?予備校に通ったんですか?

「起業がタブー」の家に育った「挫折者」は、<br />いかにしてアップル超えを誓って起業するに至ったのか?【立志編】徳重徹(とくしげ・とおる)
テラモーターズ代表取締役
住友海上火災保険株式会社(現:三井住友海上火災保険株式会社)にて、商品企画等の仕事に従事。その後、米国ビジネス スクール(MBA)に留学し、シリコンバレーのインキュベーション企業の代表としてIT・技術ベンチャーのハンズオン支援を実行。事業の立上げ、企業再生に実績を残す。経済産業省「新たな成長型企業の創出に向けた意見交換会」メンバー。一般社団法人日本輸入モーターサイクル協会電動バイク部会理事。九大工学部卒

徳重 当時、塾なんかもないわけです、僕らの田舎には。結局、広島の河合塾に行くことにして、寮で1人暮らしを始めました。いまでも覚えてますけど、3畳半ぐらいで、寝るところしかない。斎藤さんの本にもありましたけど、勉強するしかない、みたいな、そういう世界に置かれちゃったわけです。

 当時の僕は、いまと真逆でまだ精神的に弱かった。ベースは繊細なほうなんですよ(笑)。「なんで浪人したんだろう」「あのとき、もっと勉強しとけばよかった」なんてくよくよ悩んでいました。そのとき、精神的な落ち込みを回避するために立ち寄った本屋で、『負けてなるものか』っていう本を見つけたんです。

 それは、過去の成功者の分析をしている本でした。成功する人には、共通する要素があって、その中に、悪いことが起こってもそれを悪いと思わず、なんとかプラスに変えるようにがんばっている、というのがあって。

 その手の本を読むと、起業家の人が出てくるわけですが、自分と照らし合わせたのが、浪人したことの捉え方です。僕は、ものすごくネガティブに思っていたわけです。でも、たとえば東芝の社長、会長を歴任し、経団連でも辣腕を振るった土光敏夫さんは、東工大を落ちて、教員をしながら浪人しているんです。ほかにも、浪人はしていませんが、京セラの稲盛和夫さんは、受験では阪大医学部、就職では希望する帝国石油をそれぞれ不合格になっています。いま語り継がれるほどの成功者でも、かつてはそういう時期があった。「俺なんか、まだまだな」と思ったのを覚えています。

 しかも、親とは離れているので、「毎週の説教」もないわけです。親の考え方から離れて、自分でものを考えるようになりました。起業家の生き方はいいな、といったこともそうですが、自分は何が好きなのか、自分の強みは何なのか、ということも考えはじめた、というのがありますね。

斎藤 徳重さんにも、そういうご経験があるんですね。牢獄か浪人か大病か、みたいな。

徳重 よく言われるやつですよね。僕、理系だったんですけど、そういう歴史の本もたくさん読んだんです、そのころに。

斎藤 その1年で、勉強と並行していろんな本をたくさん読まれて、その後大学に?

徳重 浪人して、結局、行きたかった京大には入れなくて、九州大学に入りました。地元では一流とはいわれていて、親父も喜ぶものの、僕的には満たされない気持ちは残ってしまいました。

 大学では、サークル活動や遊びもしていましたが、やっぱりそのころから、起業家の人のようにプロフェッショナルとして働くことへの憧れは強くなっていきました。ただ、それでも親の影響もまだ色濃く残っている状態。会社なんて、やっちゃいけない、と。親不孝者になるな、と。

斎藤 そのころになってもご両親の影響が強く残っていたんですね。

坂本龍馬+ソニー+ホンダで意識した「世界」と、
家訓との間で葛藤する

徳重 とはいえ、僕のなかではやっぱり、チャレンジするっていうのは好きだから、そうとう悩みました。あと、グローバルも好きだったので……。

「起業がタブー」の家に育った「挫折者」は、<br />いかにしてアップル超えを誓って起業するに至ったのか?【立志編】斎藤祐馬(さいとう・ゆうま)
トーマツベンチャーサポート株式会社事業統括本部長。公認会計士。1983年生まれ。中学生のとき、脱サラして起業した父親が事業を軌道に乗せるのに苦労している姿を見て、ベンチャーの「参謀」を志す。2006年、監査法人トーマツ(現・有限責任監査法人トーマツ)入社。2010年、トーマツベンチャーサポート株式会社の再立ち上げに参画。従来の公認会計士の枠には収まらない「ベンチャー支援」という活動に対して当初は理解を得られず、社内からは逆風も吹くが、一つひとつ壁を越え、社内外に仲間を増やし、大きく成長するに至った。現在は、「挑戦する人とともに未来をひらく」というビジョンのもと、国内外で奮闘する100名以上のメンバーとともに、ベンチャーだけではなく、大企業、海外企業、政府、自治体などとも協働し、自らのミッションを生きる日々を送っている。起業家の登竜門「モーニングピッチ」発起人でもある。

斎藤 大学生のころには、もうグローバル志向はあったんですか?

徳重 これもやっぱり親の影響なんです。親父のことを考えると、起業するっていう選択肢はないんですよね。それは裏切りだと言えるくらい、うちの家にとっては強烈なことでした。

 とはいえベンチャーと言えば、当時は「山師」みたいなイメージ。僕の中ではソニーとかホンダが、やんちゃなベンチャーが大きくなったぐらいの感じのイメージで。そうした会社って、海外の事業も立ち上げてきた会社じゃないですか。坂本龍馬の言葉に「世に生を得るは事を為すにあり」ってあるんですけど、世界にインパクトを出してみたい、というのもチャレンジだろう、と

 そういう歴史や経営の本をいろいろ読んでいたおかげで、自分で考えるようになった結果、3つ決めたことがありました。一つは、「大を成す」。世界にインパクトを与えること。まさに坂本龍馬です。次に、「グローバルにやる」。世界でやること。ソニーやホンダに惹かれたのはまさにこれです。最後は、本田宗一郎みたいな感じですけど、「人生楽しむ」。

 ただ、「How」、つまり何をするのっていうときに、親父のこともあるし、具体的なものは何もないわけですよ。ただ、そういう生き方がカッコいいな、と。思っている大学生、でした。3年生ぐらいから、そういうのを思っていましたね。

斎藤 でもそこから、大企業、具体的には保険会社に入ったわけですよね。どういう経緯なんでしょうか?

徳重 ものすごく大きな葛藤がありました。就職するころには、僕はもう自分で考える人間になっているわけです。とにかく世界でやるっていうのがキーワードだったんで。それはもう単純にロジックというより、好きというか、そういうふうになりたいっていう憧れもあって。

 一方、親父の家訓には「墓をみろ」というのがあって、長男は地元の大企業に就職するのがベストだと。僕、工学部でも化学を選んでるんです。でもこれ、化学をやりたかったわけじゃなくて、地元の山口に化学の大企業が多いからなんですよ。

 結局、就職のときにも、ソニーかホンダ、もしくは商社に行きたいと言ったら、親父が、そんなんだったらもう出ていけ、とすごい勢いで言ったんですよね。当時の僕には、そこまでの覚悟がなくて、親父との折衷案を探るんです。それが僕の中ではNTTだったんですよね。これから情報通信が伸びると。地元にあるじゃないですか。

斎藤 たしかに、どこにでもありますね。

徳重 だけど面接をどんどん受けていくなかで、やる気がある人のほうがよくない、という雰囲気があるんじゃないか、という感じがしたんですよ。僕、当時からめちゃくちゃやる気があったんで。いまならわかります。こんな変な人間、なかなかいないですから。結局、これはまずいなと思って、途中で自分から辞退しました。

 そんな回り道をしたので、もう商社は終わっていて、残っているのが、銀行と損保と生保しかありませんでした。そこで、親父の言うことは無理だと、初めて破りました。面接では、正直なことを言いました。僕はサラリーマンっていうのは嫌です、プロのビジネスマンになりたい、と。ちょっと変わっていると思いますが、それをいろんな会社が評価してくれて。一番僕を買ってくれている会社へ行こうと思ったのが、たまたま住友海上火災保険株式会社(現:三井住友海上火災保険株式会社)だったんです。しかも、すごくいい部署に配属させてくれました。いまでも感謝しています。

斎藤 「感情曲線」では、少し低めだけどプラスのほうで安定していますね。実際はどうだったのでしょう?

徳重 たまたま入ったところがいい部署だったから、がむしゃらに3年間がんばりましたが、だんだん会社の中も見えてきますよね。すると、また振り返るわけです。俺、なんで、ここを選んだんだっけと。そうすると化学を専攻したときと一緒で、結局、親父の影響をすごく強く受けている、とわかったんです。

 もし、自由に選べていたら、自分で選んだソニーかホンダか行ってたはず。でも、湾曲されてしまっているわけです。それに気づいたとき、僕はもう親父を振り切らないと、自分の人生は始まらないな、と思ったんです。4年目くらいのときです。