「生活保護世帯が憲法上の権利を充分に享受できているとはいえない」とは、どういうことだろうか?

「表現の自由(憲法第21条)、幸福追求の自由(同13条)、思想及び良心の自由(19条)。……そういった精神的な自由に関する権利は、心に余裕があってこそ享受できるわけですよね? ギリギリの、明日の生活がどうなるか分からない状況では、いずれの権利も『絵に描いた餅』に過ぎません」(白木さん)

 生活保護で暮らす人々から、保護費支給前の数日~10日間程度の困窮を聞くことは数多い。米と水だけで食いつないだり、それも十分にはできず、空腹のことばかり考えて過ごしていたり。

「そんな状況では、たとえば、好きな映画を見て、感動できるでしょうか? 図書館の本を読んで、思索を深められるでしょうか? 難しいと思いませんか?」(白木さん)

 今のところ、私には生活保護の経験はない。福祉事務所に生活保護の申請を勧められるほどの困窮は経験していたが、申請するに至らないほどの短期間で終わった。しかし、揉め事や不安を抱えているとき、目の前の本に集中したり、何かを「楽しい」と感じたりすることが、どれだけ難しくなるか? それは理解できる。

「だからこそ、憲法第25条は、その他の憲法上の権利を行使するための最低条件、必要条件でもあると思うんです」(白木さん)

 そもそも引き下げ以前の2012年、生活保護基準は「健康で文化的な最低限度の生活」を保障できていただろうか? 人間の生活の基本的な費用に関する数多くの研究に照らせば、「否」であった。それらの研究結果に比べて、当時の生活保護基準は、1~2万円不足していた。この「1~2万円」は、生活保護の人々に「あと何円あったら、あなたの考える『健康で文化的な最低限度の生活』ができると思いますか?」と私が質問したときに返ってくる答えと、概ね一致していた。

「人間とは?」「人間の暮らしとは?」
生活保護引き下げ訴訟を通じて改めて問う

 さらに、この訴訟には、いわば「人間裁判」と呼ぶべき側面がある。

「この訴訟は、『人というものを、どう考えるか』にもつながっています。フランクルの『夜と霧』でも描かれているとおり、人間は、息を吸い、食事をし、排泄をするという単なる動物として生存しているのではありません」(白木さん)