17歳の女子高生・児嶋アリサはアルバイトの帰り道、「哲学の道」で哲学者・ニーチェと出会って、哲学のことを考え始めます。
そしてお休みの土曜日、またまたやってきたニーチェは、「せめぎあう力への意志」について話しはじめるのでした。
ニーチェ、キルケゴール、サルトル、ショーペンハウアー、ハイデガー、ヤスパースなど、哲学の偉人たちがぞくぞくと現代的風貌となって京都に現れ、アリサに、“哲学する“とは何か、を教えていく感動の哲学エンタメ小説『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』。今回は、先読み版の第16回めです。

世の中には“力への意志”が絶えず拮抗しており、
つねにせめぎ合っているのだ

「そうだ。世の中には“力への意志”が絶えず拮抗しており、つねにせめぎ合っているのだ。
 どういうことかというと、手入れをされていない池を想像してみてくれ。
 手入れのされていない池には、藻が繁殖していくよな。藻は、誰に遠慮することもなく、どんどん繁殖していく。
 生物は生に向かっていく力を、最大限に発揮するという本能が備わっているのだ。より強い生き物であろうとする意志が備わっているものなのだ。
 これが“力への意志”だ。自分が持つパワーを最大限に出して生に向かっていくこと、いまよりもっと強くなっていこうとすることが“力への意志”である」

「そっか、なんとなくはわかるかな」

「誰しもが、“いまよりもっと強くなりたい”という意志を持っているのだ。
 そしてこの強さというのは、“俺は、百獣の王を目指す!”といった武井壮的な肉体の強さだけをさすのではない。立場や権力、名誉や金など、自分の権威に関わるものも含まれている」

「自分がより優位になるものみたいな感じかな」

「そうだ。そしてこの話にはまだ続きがある。さきほど“力への意志”が絶えずせめぎ合っていると言ったのを覚えているか?
 その説明をいまから行おう。
 さきほどの手入れされていない池の話を思い出してくれ。藻はパワーをフルに発揮し、池を埋め尽くすほどになったとしよう。そんな池に、藻を食べる魚を投入すると、どうなると思う?」

「うーん、魚に食べられて、藻の量が減るんじゃないかな」

「そうだ。魚が藻を食べ、藻の量が減るだろう。では、藻は全滅すると思うか?」

「魚の数にもよると思うなあ。大量に入れたら全滅するかもしれないけど、そんな大量に入れなければ大丈夫なんじゃないかな」

「そうだな、魚は藻を食べるが、あるところでバランスがとれて落ち着くだろう。
 これは、藻が持つ“力への意志”と魚が持つ“力への意志”がせめぎ合った結果、あるところで落ち着くのだ。
 これが力への意志がつねにせめぎ合っているということだ」

「それは、権力争いみたいなもの?」

「そうだ。パワーとパワーがぶつかり合った結果、あるところで収束するのだ。この“力への意志”は生物に限ったものではない。
 例えば、三国志のような国家のせめぎ合い。肝機能とアルコールなども、力への意志のせめぎ合いがあるといえるだろう。ウイルスと免疫力の関係などもそうだろうな」

「肝機能が持つパワーとアルコールは、肝機能パワーが強ければアルコールに強くて、肝機能パワーが弱ければアルコールパワーに負けてお酒に飲まれちゃうってことかな」

「そうだな。なので肝機能パワーを高めるために、ヘパリーゼやウコンの力をドーピングしているのだな、新橋あたりで飲んだくれているサラリーマンは……。
 そして、この“力への意志”だが、世界はこのような力への意志のせめぎ合いで満ちているのだ。なにかトラブルが起こったり、なにか大きな変化があったとしても、結局は落ち着くところに落ち着く、といった経験はアリサにもあるのではないだろうか?何かが起こったり、衝突したとしても、最終的には落ち着くところに落ち着くのは、力への意志によるものなのだ」

 丸太町通を河原町通の交差点まで歩くと、喫茶店や飲食店がいくつか立ち並び、町並みも賑わいを見せてきた。

 通い慣れた道ではあるが、ここに立ち並ぶお店一つひとつも、さまざまな力への意志の拮抗があった末に、ここにこうして存在しているのだろうか。

 そう考えると、見慣れた町並みさえも、意味深なものに思えてきた。

(つづく)

原田まりる(はらだ・まりる)
作家・コラムニスト・哲学ナビゲーター
1985年 京都府生まれ。哲学の道の側で育ち高校生時、哲学書に出会い感銘を受ける。京都女子大学中退。著書に、「私の体を鞭打つ言葉」(サンマーク出版)がある