マツダが「他社と違うことをやる」のは、むしろ技術開発に愚直だからPhoto by Akinori Shimono

マツダ車でないとダメなんだというお客さまがいる

 マツダという自動車メーカーに、どんなイメージを持っているだろうか。

 広島で生まれ、今も広島に本社を構える地方企業だ。90年代に、いわゆる経営危機にも陥ったことを覚えている読者も多いだろう。米フォード・モーターの傘下で、大リストラも経験した。リーマンショックで再び業績は悪化したが、2015年度は売上高は3兆4066億円、営業利益2268億円という状況に落ち着いている。といっても、トヨタ自動車の売上高28兆4030億円とは比べるべくもないし、年間販売台数は153万台(15年度)と、トヨタの868万台に遠く及ばない。

 それでも、数ある自動車メーカーの中でも、マツダ車でなければダメなんだとおっしゃるお客さまがいる。我々自身もクルマが好きで、クルマづくりに誰よりも情熱を傾けているという自負があるだけに、そんなお客さまがいることが誇りでもある。

 子どもの頃、我が家にはクルマはなかった。初めてクルマの素晴らしさを知ったのは、大学に入ってからである。

 長野県の松本深志高校から東北大学に進むと、友人たちは皆、クルマを持っていた。ケンとメリーのスカイライン、トヨペット・コロナ、カローラ、ミニカ……。彼らの愛車の助手席に乗せてもらって学校に行ったり、実家に帰省したり。クルマって何と楽しいものなのかと心から思い、もちろん免許もすぐに取った。

 父親が電電公社の技術者だったこともあり、ものづくりには小さい頃から興味があった。大学は工学部だったし、ごく自然に自動車メーカーで働くことに憧れるようになった。自分の作ったモノが、街で実際に走っているのを見られるのである。それは技術者冥利に尽きる。

 大学のあった仙台から広島の東洋工業(現マツダ)は大変遠いのだが、当時の東洋工業は、国内で唯一、世界でも極めて珍しいロータリーエンジンを開発・量産する会社だった。ロータリーエンジンというのは、一般的なピストンエンジンとは全く異なる構造をしており、軽量・コンパクトに配置できて、振動や騒音が少なく、それでいてパワーがあることが特徴だった。技術的に優れた会社というイメージを持っていたし、何より当時、「コスモAP」というラグジュアリースポーツ車があって、実にカッコよかったのだ。

 仙台から広島まで入社試験を受けに来た私に、人事担当者は当然、「なぜ当社を選んだのか」と尋ねたが、「とにかくこの会社以外にないと思って来ました。素晴らしい会社だと思っています!」と答えた。紛れもない本心からだった。

 首尾よく採用され、入社したのは1977年。オイルショックの直後である。ロータリーエンジンはメリットは多いものの、燃費が悪いというイメージが付きまとい、オイルショック以降、マツダの業績は非常に悪かった。そのため75~76年は新卒採用を控えていたほどだった。

 幸い77年から採用が再開され、同期入社は40人くらいいたが、苦しい状況というのは変わらなかったのだと思う。生産現場から国内営業に配置転換や出向が行われたり、社内には悲壮感が漂っていた。もっとも、新入社員の私は、あまり深刻には考えず能天気だった。マツダで働けることが嬉しくて仕方がなかったのだ。

 入社してすぐに、「ルーチェ」の中古車を買った。若者向けのクルマではないが、もちろんロータリーエンジンだ。憧れのコスモは当時、中古はほとんど出回っていなくて、かといって新車は185万円もしてとても手が出なかった。同期で無理をして買った者もいて、私も「いつかは…」と思っていたが、そのうち生産中止になってしまった。欲しいと思ったクルマは、その日、その時に買わないとダメだ。