フリーアナウンサーで歌舞伎役者・市川海老蔵の妻でもある小林麻央さんが亡くなった。ご存じのとおり、ガンに身体を冒されながら死の2日前までブログを更新し続けていた。日本中で彼女の死を悼み、悔やむ声、あるいは彼女の生き方に対する共感と賛美の声が巻き起こっている。
一方、アイドルグループNMB48のメンバー・須藤凜々花がAKB選抜総選挙イベントの場で「結婚宣言」したことについては、賛否両論の議論が続いている。小林麻央さんの件とはなんの関係もない話だと思われるだろうが、芸能人・ジャーナリスト・文化人といったメディアに顔と名前をさらしてなんらかの表現活動をしている人たちにとっての表現とはなにか――それを改めて考えさせられる話題だった。そこで今回は、「表現」というもののあり方について考えてみたい。
彼女が表現者として
伝えたかったこと
まず小林麻央さんであるが、実は僕自身も最近、自分が死に向かってどのような生き方をすべきかを考えることが多かったので、死の間際までブログを更新し続けていた彼女の生き方には感じるところも多い。「人間の価値は、死に方で決まる」とよく言われるが、若い頃には自分の死を本当に意識することは少ないし、難しい。人がどの時点でどのように自分の死を意識できるかは状況によるし、それこそ、生き方にもよる。
ちなみに僕の場合は、一昨年に両親が相次いで他界した。すると「両親の人生は一体なんだったのか。世の中や子どもたちになにを伝え、なにを残したのか」と日常的に考えるようになった。そんなことを改めて考え続けると、この両親のもとに生まれたからこそ、いまの自分があることが実感できるし、自分の子や世の中になにを残せるかを真剣に考えるようになる。
そして、僕は今年で60歳になる。普通にサラリーマンをしていれば定年退職の年齢であり、ある意味で人生の1回目の終わりだと感じている。さらには持病があって(すぐに日常生活や仕事に影響するような重病ではないが)、平均寿命までは生きられないかもしれないと考えたりもする。世の中には90歳になっても元気に講演活動や執筆活動を続ける人もいるが、僕の場合はあと10年かなと感じている。
もちろん34歳という若さで、子どももまだ幼いのに余命数ヵ月と医師から宣告された人と同列に論じるのも僭越すぎる気もするが、それでも自分の人生のゴールが否応なく見えたときに、残りの人生に対する見え方や景色が変わるという意味では、共通する部分もあると思う。だからこそ小林麻央さんが死ぬ間際までブログを更新し続け、抗がん剤の副作用で髪の毛が抜け落ち、ウィッグを使用している姿までさらけ出したことの「意味」を考えてしまう。
当たり前だが、彼女は表現者として「伝えたいこと」があるからブログを更新し続けていた。そのブログの最初の投稿では「なりたい自分になる」と題してこのように語っている。
*以下、小林麻央オフィシャルブログ「KOKORO.」2016-09-01より引用
今日から、
ブログを書くことにしました。
家族はとても、驚いています。
素晴らしい先生との出会いに
心を動かされました。
その先生に言われたのです。
「癌の陰に隠れないで」
(中略)
私は
力強く人生を歩んだ女性でありたいから
子供たちにとって強い母でありたいから
ブログという手段で
陰に隠れているそんな自分とお別れしようと決めました。