「世界へ」の想いがつむいだ
2人の信頼関係
藤沢武夫は、本田宗一郎から会社の実印を預かっており、会社の決定権をも持っていたそうですが、これは、本田宗一郎から絶大なる信頼があってこそ託されたもの。
本田宗一郎の会社と社会に対する熱い想いや理想を、藤沢武夫が真摯に受け取ったからこそ、藤沢武夫は「火の九紫」として魂が燃え盛り、大きな功績を残せたのです。
派閥解消のための役員大部屋制。役員の子弟を入社させない社内のシステムづくり。それらは、いまも本田技研工業の「規範」として受け継がれています。
卸を専門とした販売システムや、中古車の販売会社などを全国に展開して、小売店をサポートしていく体制を構築しつつ、修理目的のサービス・ファクトリー工場も整備しました。
現在では、すっかりなじみ深いものとなった多くのシステムや体制ですが、これらも藤沢武夫が手掛けたものです。
また、1954年に発表された本田宗一郎の「マン島TTレース出場宣言」は、藤沢武夫によるものとも言われていますが、藤沢武夫は「火の九紫」ならではのインスピレーション(=発想・アイデア)と情熱で本田宗一郎を支え、刺激し合いながら、会社を引っ張っていったのです。
藤沢武夫は、1964年に副社長に就任し、1973年に副社長を退任、同じく退任した社長の本田宗一郎とともに第一線を退きました。
二人三脚の人生を歩んだ2人に共通するのは、「世界へ」という大きな想いです。その想いが、2人のエネルギーを引き出し、最強のパートナーとして名を残すことになったのです。
信和義塾大學校創設者兼塾長、経営コンサルタント。早稲田大学商学部卒業。
ノースウェスタン大学ケロッグ経営大学院ブランディング実践講座エグゼグティブコースを修める。ハーバードビジネススクールでは経営学を学ぶ(いずれも短期集中型の経営者クラス)。1992年、地球サミットに国連認定ジャーナリストとして参加したことを契機に環境ジャーナリストとして活動。1997年の地球温暖化防止京都会議を機に、株式会社エコライフ研究所設立。環境ジャーナリストとしての取材・分析力と経営コンサルタントとしての提案力をベースに、800社以上を環境ビジネスに参入させ成果を挙げる。その傍ら、住宅、環境を軸にした本を多数出版(本書が30冊目)。講演依頼も多く、国内外で2000回以上の実績。2005年、教育研修会社の株式会社ゴクーを設立。1万人のサンプリングを体系化した『9code(ナインコード)』をもとに、信和義塾大學校で指導にあたるほか、企業や各種組織で『9code』を利用したコンサルティングや人材活用研修も多い。現在、信和義塾大學校は、世界6か国20都市以上にあり、塾生は700名超。