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クレイグ 両藩の武士の数も公式の数字よりもはるかに多かったのです。薩摩も長州も、関ヶ原の戦い後、幕府から減封されたため、狭くなった領土に多くの武士がひしめくこととなりました。ところが、家臣の数は、石数に比例して決められていたため、全員が直臣となることはできませんでした。直臣になれなかった武士は郷士(農村に土着した武士)となり、武士としてカウントされませんでした。つまり、公式の数字では、薩摩1万4000人、長州6000人となっていますが、実際には、薩摩には2万8000人、長州には1万1000人もの武士がいたのです。

佐藤 なぜ、長州と薩摩は、江戸時代の始まりに領土を減封されたのにもかかわらず、幕末にはこれほどの経済力をつけていたのでしょうか。

クレイグ 両藩とも藩政改革に成功したからです。

 長州藩は、藩士の村田清風が幕府の天保の改革よりも前に藩政改革に着手し、財政の再建に成功しました。村田は米、紙、塩、蠟(ろう)の生産強化を行ったほか、藩債や藩士の借財を一挙に整理しました。また、下関に「越荷方(こしにかた)」という藩営の機関を置き、ここを通る船の積み荷の委託販売を行ったり、積み荷を担保に資金を貸し付けたりするビジネスを始めました。この越荷方の営業は大成功し、わずか4年で負債の3分の1近くを返済します。

 こうした村田清風の改革を支えたのが、「撫育局」(ぶいくきょく)です。ここは特別会計を扱う部署であり、「非常時のためのお金」を蓄財するだけではなく、新田開発や新規事業を推進するための投資も行っていました。このお金が後に長州藩の隠し財産となっていったのです。撫育金は幕末までには莫大なものとなり、それが倒幕用の武器購入資金となりました。

佐藤 薩摩藩でも同じような財政改革が行われたのでしょうか。

クレイグ 薩摩藩では1827年ごろから、藩士の調所広郷(ずしょひろさと)が改革を始めました。調所もまた長州と同じように藩債の整理に着手しました。膨大な借金を、無利子、250年での返済にすると商人に一方的に通告し、藩の借金を帳消しにしてしまいます。

 薩摩の改革が長州の改革と違っていたのは、専売制を中心とした経済政策をとったことです。薩摩は、特産品の黒砂糖の専売制を強め、琉球を通じた密貿易で利益を上げて財政を立て直します。