外国から到来した借り物の言葉

「自由」の再定義ですか。むずかしいですねえ。ずいぶん哲学的な質問だなあ。

「自由」という語がlibertyやfreedomの訳語に採択されたのは明治以降ですね。それまでも仏教用語としてはあったようですけれど、「やまと言葉」には存在しない言葉だと思います。「自由」は手元の古語辞典にも日本語源辞典にもありませんし、僕自身の読書体験を思い起こしても、古典文学で「自由」なんて文字列を見た記憶がありません。日本人の生活文化にはまったく根づかない「借り物の言葉」だったんだろうと思います。

 そして、明治に近代日本の語彙に登録されてから150年経ったけれど、未だにこなれた日本語になっていない。単語としては存在しているけれど、意味を受肉していない。

 現に、「自由民主党」という政党名について「この政党のどこが自由で、どこが民主なのか」というタイプの問いを誰も口にしないでしょう。あの党名に自民党員たちも、野党も特段の違和感を感じていない。「自由」とか「民主」といった語が日本語として受肉していて、それなりの「意味の身体」を持っていたら、「そぐわない」とか「ぴったりだ」とかいう感想を口にする人が党の内外に出て来て当然だと思うけれど、そんな人、どこにもいないじゃないですか。

「自由」とは何かなんて今ごろ言っているのは『Six』くらいですよ(笑)。日本語じゃないんだから、どう考えたって答えなんか出てきようがないです。

 ですから、改めて「自由とは何か?」と問われたら、外国から到来した借り物の言葉で、日本人はその語に今もリアリティを感じることができずにいる、というのが答えになるんじゃないですか。

 ヨーロッパの場合だったら、その語が出現してくる歴史的な必然性がある。古代ギリシャには奴隷と自由民という身分制があったし、中世には自由都市があり、ギルドや組合というものがあった。いずれもローマ教皇や神聖ローマ皇帝や国王や地方領主の支配を押し戻して、裁判権や免税権などの特権を確保するための組織です。さまざまなレベルでの政治権力からの干渉に対峙していた人たちにとって、「自由」というのは具体的で、生活実感にしっかりと根ざした、持ち重りのする言葉だったと思います。

 日本でも、例外的なケースですけれど、博多や堺が自治都市であったし、加賀の国が100年間一向一揆状態が続いたことがありました。政治権力の干渉を退けて自治を行ったという点ではヨーロッパ的な「自由」を実践した事例に近いのかも知れない。でも、あくまで例外的事例にとどまり、フランス革命のように、「市民的自由の獲得」が国民的な目標として自覚的に掲げられて、歴史を通じて全体化していったわけじゃない。

 だから、「日本には自由はない」と言っていいと思います。勘違いして欲しくないんですけれど、日本には「その代わりになるもの」がある。