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旧世代からの過大な要求に
若者たちは疲弊している

 このメリトクラシーとハイパー・メリトクラシーが併存する社会における最大の被害者は若者です。最近では、早くに起業して「評価する側」に回る人もいますが、その圧倒的多数は「評価される側」です。

 たとえば就職活動は、昔の学生たちと比べて何倍も大変です。語学、資格、社会貢献活動の経験のほか、それこそ人間力やジェネリックスキルを高める努力を強いられているからです。

 こうした努力のおかげもあって、いまの若者は相当優秀です。自分の経験だけで「近頃の若者は――」と苦言を呈するのは、年長者にありがちな悪い癖ですが、断じて能力が低いことはありません。むしろ不幸なことに、要求水準が驚異的に上がっているのです。

 たとえば、前向きで、やる気や根性があり、周囲への配慮や礼儀も怠りなく、若者らしい新鮮な発想やアイデアの持ち主で、勉学にも真面目にいそしみ、語学も堪能、といった具合です。そんなことを要求する方々は、ご自分たちが若かった頃はどうだったのでしょう。こうした期待、もとい過大な要求は、就職活動の時だけではありません。正社員になっても、また非正社員でも、評価される側であり続ける限り、つきまとうことでしょう。学校や職場など、周囲の人たちからのそうした顕在的、潜在的な要求は、若者にすれば、極めて「しんどい」ものです。社会の中で常に評価される側の若者たちは、必要以上の負荷を背負わされているのです。

 社会学者の渋谷望氏が、かつては主にサービス業で求められていた「感情労働」、つまり自分の感情をコントロールすることを強いられるケースが他の領域でも広がっている、と指摘しています。

 たとえば、気配りや気働きといった能力が高いからといって、派遣労働者の時給が上がる理由にはなりませんが、それがなかったり不足していたりすれば、契約を打ち切られる可能性があります。

 こうした感情労働に不可欠な非認知能力は、相対的な優劣に基づく序列をつくったり、安易に主観的なラベルを貼ったりします。その結果、下方に序列された人は、いわゆる「使えないやつ」という烙印を押されることになります。

 私たちが調査したところでは、そのような烙印を押された若者たちには、社会の中心から周縁へとみずから外れていく傾向が見られます。つまり、他者から勝手に貼られた理不尽なラベルにもかかわらず、「それは自分の責任なのだ」とみずからを追い込み、自分を罰する形で退出していくのです。

 『「家庭教育」の隘路』(勁草書房)の中で、たくさんの母親にインタビューをされていますね。

 表現のセンスはともかく、男女共同参画社会、女性活躍の推進、輝く女性の活躍を加速する、などが政策的に謳われています。しかし、フィールドワークを通じて聞こえてくる彼女たちの肉声は、政治家や官僚、ビジネスリーダーたちのマクロな認識や理解とは大きくかけ離れています。

 社会そのものにいくつもの足かせが存在しているのに、女性たちには、さらに固有の制約や社会的義務が課されます。メリトクラシーとハイパー・メリトクラシーによる二極化により、結婚して家庭を築き、子どもを育てるという、ごく当たり前のことすら難しくなっています。

 周知の事実ですが、日本は先進諸国の中でも、とりわけ性別役割分業が強固な国です。世界経済フォーラムが発表した「2017年版ジェンダーギャップ指数報告書」によれば、144カ国中114位で、年々下がっています。女性支援やダイバーシティ推進のかけ声は年々高まっているものの、いっこうに実態は改善されない。

 その背景を先述の人間力に絡めて考えると、それを子どもに身につけさせる社会的必要性というプレッシャーから、母親たちは「スーパーマザー」として振る舞おうと背伸びをしがちです。またこうした要求に対して、居住地、所得や資産、母親の職業や社会的地位などによって、やはり反応や態度に違いがあり、それが格差の源となります。

 メリトクラシーとハイパー・メリトクラシーを当たり前とする社会のままでは、格差が格差を生み出す悪循環を断ち切ることはできません。女性のワークライフバランスは、おそらく一部の上澄みの人たちしか享受できず、多くの人々には空虚な言葉としか聞こえないでしょう。