「明君(賢い君主)と暗君(無能な君主)との違いは何か」、唐の第2代皇帝太宗は、腹心の魏徴にこう尋ねた。すると、魏徴答えていわく「明君の明君たるゆえんは、広く臣下の進言に耳を傾けることであります。また、暗君の暗君たるゆえんは、お気に入りの家臣の言葉しか信じないことであります。(中略)君主たる者が臣下の進言に広く耳を傾ければ、一部の側近に耳目を塞がれることなく、よく下々の動きを知ることができるのです」。

  これは『貞観政要』の一節である。この書物は、「貞観の治」(627〜649年)と呼ばれる太宗の治世について、その要諦をまとめたものであり、古来より帝王学の教科書といわれてきた。

 太宗はこのように語る。「人は自分を見ようと思えば、必ず鏡を使う。君主が過ちを知ろうと思えば、必ず忠臣の諫言が必要である。(中略)君たちは人民が苦しんでいる状況を見たならば、必ず思う存分言い尽くし、私を正し、諫めなければならない(注1)

 不都合な真実や耳の痛い話を教えてくれたり、自分をいさめてくれたりする人が、周囲にいるだろうか。「直諫は一番槍より難し」といわれるように、現代の日本にあって側近や部下には望むべくもない。実際、なかなか見つからないのではないか。

  本田由紀氏は、あえて空気を読まない、直球勝負の研究者だ。通説や常識を疑い、精緻な調査と分析に基づく事実ベースの言説は、鋭く、時に挑発的だが、総じて小気味よい。ただし、企業リーダー(とその側近の人たち)にすれば、辛辣で、あまり心地よくないかもしれない。

 しかし、ビジネスパーソンがついつい忘れがちな「社会の視点」「辺境の視点」を提供してくれる。それは、いわゆる批判や諫言に聞こえようとも、実は自戒や内省のチャンスであり、変革やイノベーションのヒントにほかならない。

  本田氏の専門である教育社会学は、教育に関わる事象や問題を社会学の手法によって分析する学問分野であり、本田氏は、教育と仕事(企業)と家族の3領域の関係についてずっと研究や実地調査を続け、声なき声をすくい上げ、発信し続けている。いわく「肉声のリアリティを束にして示すということが、ひしめくように苦しんで生きている人間たちがいることを説得力をもって社会に打ち出すためには、すごく重要なのです(注2)」。

 本インタビューでは、まだまだ十分認識されていない若者や女性の雇用や就業の現実、中高年に関する課題について指摘してもらう一方で、いま各所で議論されているメンバーシップ型雇用からジョブ型雇用への転換に向けた「新たな選択肢」を提示してもらった。

注1)呉兢(ごきょう)著、守谷洋訳『貞観政要』(徳間書店、1996年)を参考。
注2)本田由紀『もじれる社会』(ちくま新書、2014年)より。

実力主義と超実力主義が
併存する時代

編集部(以下青文字):現在の日本を「もじれる社会」と表現されています。どういう意味でしょう。

超実力主義社会の<br />「人間らしい働き方」を考える【前編】
東京大学大学院 教育学研究科 教授
本田由紀
 YUKI HONDA
東京大学大学院教育学研究科教授。1964年、徳島県徳島市生まれ。東京大学大学院教育学研究科博士課程単位取得退学。博士(教育学)。日本労働研究機構研究員、東京大学社会科学研究所助教授等を経て、2008年より現職。専門は教育社会学。主な著書に、『女性の就業と親子関係』(勁草書房、2004年)、『若者と仕事』(東京大学出版会、2005年)、『多元化する「能力」と日本社会』(NTT出版、2005年)、『「家庭教育」の隘路』(勁草書房、2008年)、『教育の職業的意義』(ちくま新書、2009年)、『学校の「空気」』(岩波書店、2011年)、『軋む社会』(河出文庫、2011年)、『社会を結びなおす』(岩波ブックレット、2014年)、『もじれる社会』(ちくま新書、2014年)などがある。また、太田光、田中裕二との共著『爆笑問題のニッポンの教養 我働くゆえに幸あり? 教育社会学』(講談社、2008年)をはじめ、『若者の労働と生活世界』(編著、大月書店、2007年)、『労働再審〈1〉転換期の労働と「能力」』(編著、大月書店、2010年)、『「ニート」って言うな!』(共著、光文社新書、2013年)、『現代社会論』(編著、有斐閣、2015年)、『危機のなかの若者たち』(編著、東京大学出版会、2017年)、『文系大学教育は仕事の役に立つのか』(編著、ナカニシヤ出版、2018年)など共編著多数。

本田(以下略):あまり聞き慣れない言葉だと思いますが、「もじれる」とは、よじれる、ねじれるという意味です。当初は自分の造語だと思っていたのですが(笑)、ちゃんと辞書に載っています。私の場合、もつれる、こじれる、じれる、もじもじするといった感覚が入り混じった、悶々とした状況を表現するために、この言葉を使っています。

 日本のもじれについて、私は次のように認識しています。

 日本では、高度経済成長期からバブルが崩壊するまで、仕事と家族と教育、これら3つの間には独特な「連関構造」が成立していた。すなわち、仕事で得た収入は家族の生活のために投じられ、その余剰は子どもの教育に回された。子どもたちはよい大学、よい会社に入るために勉強を頑張る。これに応えるために親も頑張る。経済は右肩上がりだったので、年々増えていく教育費をカバーできる収入にあずかれた、という一見スムーズな循環が成立していた、と。私はこの循環を「戦後日本型循環モデル」と呼んでいます。

 バブル崩壊後、この循環モデルのほころびが露わになり、あちこちから軋みの音が聞こえてくるようになりました。こうして、経済学や経営学、私と同じ教育学や心理学といった社会科学の識者はもとより、政治家や実業家など、各方面から、さまざまな分析や提言がなされました。ところが、社会構造も、人々の思考や感情も著しく「もじれて」しまって、いっこうに先に進めずにいる――。

 ここまでは、多くの方々に同意していただけるのではないでしょうか。

 すでに機能不全に陥っているにもかかわらず、社会が荒れれば荒れるほど、人々は慣れ親しんだシステムや価値観にしがみ付いてしまう。こうした矛盾こそ、もじれた社会の核心ではないでしょうか。

 私はこのような認識に立って、教育と仕事、仕事と家族、家族と教育の関係を、いま一度持続的な好循環に組み替える方策について、多種多様なデータを収集し、手を替え品を替えしながら提案してきました。とりわけ、教育と仕事の関係におけるもじれは、現在の閉塞感の大きな原因の一つだと考えています。