日清食品の創業者、安藤百福は2007年1月5日に亡くなった。96歳だった。その4日後、『ニューヨークタイムズ』紙は、「ミスター・ヌードルに感謝」と題する社説を掲載し、次のような文章で結んだ。

 「インスタントラーメンの発明によって、安藤は人類の進歩の殿堂にその名を永遠に残すことになった。人に魚を釣る方法を教えれば、その人は一生食べていける。人にラーメンを与えれば、何も教える必要はない」

 これは、安藤と彼の発明に対する最大級の賛辞を表したものにほかならない。彼はまさしく偉大な発明家だった。しかしそれだけではない。偉大な産業人であり、また起業家、経営者でもあった。

 


 数多の特許侵害にもめげず、みずから開発した技術を一人占めすることなく、オープンな使用許諾を通じて、おのれも競争に身を投じ、新産業の発展へと結実させた。歴史を遡ってみても、類似する例は極めて少ない。当時の特許庁長官も「知的所有権を独占せずに公開して、世界的な産業にまで発展させた人は安藤さんをおいてほかにない」と評している。安藤いわく、「会社は野中の一本杉であるよりも、森として発展したほうがよい」。

 安藤に限らないが、大事を成し遂げる人には、その人の一生を貫く強烈な原体験の存在が共通している。

 終戦翌年の1946年の冬、大阪の御堂筋を歩いていると、腹を空かせた子どもたち、やせ細り、うつろな目をした飢餓状態の人たちがたくさんいた。道端にうずくまっている人がいたが、それは餓死者だった。安藤はこの光景を見て、「衣食住というが、食がなければ衣も住も芸術も文化もあったものではない」と思い至る。

 その翌年の冬、阪急梅田駅の裏手にあった闇市を通りかかると、一軒の屋台の前に20~30メートルの長い行列ができていた。それはラーメンを待つ行列だった。温かいラーメンをすすっている人たちの顔は、皆幸せそうな表情に包まれていた。これが安藤のその後の人生を決定付けた一瞬であった。

 日清食品の企業理念は「食足世平(しょくそくせへい)」(食足りて世は平らか)だが、そのルーツにはこうした実体験がある。

 安藤は、チキンラーメンの発明に成功するまで、実に多くの商売を起業している。メリヤス貿易、製塩、学校経営、加工食品、蚕糸、幻灯機、炭焼き、軍用機用エンジン部品等──。

 戦後という時代背景もあったであろうが、このように次から次へと新しい事業に手を染めた。しかし、禍福はあざなえる縄のごとしというが、成功したかと思うと、はめられたり騙されたりで、気づいてみれば無一文になっていた。しかし、彼の旺盛な好奇心や起業家精神は萎えることはなかった。

 しかも、「人生に遅すぎるということはない。50歳からでも60歳からでも新しい出発はある」とみずから述べているように、安藤には年齢規範という偏狭で窮屈な「べき論」はなかった。実際、チキンラーメンの開発は48歳、カップヌードルは61歳の時である。ちなみに、これら世界的大ヒット商品は、いわゆる「カテゴリー創造型イノベーション」の典型であり、まさしくブルーオーシャンを見出した。

 近代細菌学の開祖、ルイ・パスツールのスピーチに、こんな一節がある。「幸運は『待ち受ける心』(prepared mind)にだけ味方する」と。すなわち、常日頃から探究心を持って日々努力している者にのみ、幸運の女神は微笑む。なるほど、安藤の数々のひらめきは、突き抜けた執念と一意専心の取り組みの賜物である。

 この待ち受ける心の持ち主は、こんな言葉を残している。
「考えて、考えて、考え抜け」「ひらめきは執念から」

 けだし、起業、そしてイノベーションの極意である。


●構成・まとめ|岩崎卓也   ●イラスト|ピョートル・レスニアック
*謝辞|本イラストレーションの制作に当たっては、日清食品ホールディングス広報部にご協力いただきました。