伊藤忠兵衛×渋沢秀雄

 渋沢栄一(1840年3月16日~1931年11月11日)氏は1909年(明治42年)、古稀(70歳)を機に、それまでに自らが立ち上げたり、設立・経営に関わった多くの企業・団体の役員から退いた。

 一方、本誌「ダイヤモンド」が創刊したのは、13年(大正2年)。それから3年後となる16年、喜寿(77歳)を迎えた渋沢氏は、思い入れの深さゆえか最後まで務めていた第一銀行の頭取も辞し、実業界から完全に引退した。もちろん実業界引退後も、各種の社会公共事業や国際親善に尽力している。

「道徳経済合一説」すなわち利潤と道徳を調和させるという、経済人がなすべき道を示した『論語と算盤』を刊行したのは、実業界完全引退の年のことだ。31年に没するまで、日本の多くの経営者に影響を与え続けた。

 残念ながら本誌のバックナンバーを掘り起こしても、渋沢本人が現役の経営者として登場する記事は発見できなかった。しかし、同氏から直接薫陶を受けた経営者が、その思い出を語る記事はいくつも見つかる。51年4月1日号には、伊藤忠兵衛(2代目、伊藤忠商事の創業者、初代伊藤忠兵衛の次男、1886年6月12日~1973年5月29日)と渋沢秀雄(栄一の四男、1892年10月5日~1984年2月15日)による「渋沢栄一の思い出」と題された対談が掲載されている。

 当時、伊藤は65歳、秀雄は59歳。秀雄が伊藤の黒々とした髪を羨み、その秘訣を尋ねるという、微笑ましいエピソードで始まる。栄一の思い出話だけに留まらず、いかに日本の役所や会社にユーモアが足りないかなど、対談は脱線に次ぐ脱線で進んでいく。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

雑文書きに追われて

「週刊ダイヤモンド」1951年4月1日号より1951年4月1日号より

伊藤 お変わりなくって…。

渋沢 いや、どうも…。

伊藤 よくあんなに書けるね。

渋沢 もう種がなくて困っていますよ。

伊藤 毎月どのくらい書いています。

渋沢 今年になってから、よほど注文減りましてね。これは僕だけじゃない、ほかの連中もそうらしいが、やはり雑誌がいくらか減ってきたからでしょう。

 僕なんか、まぁ景気のいい時で1ヵ月150枚くらい書きました。景気の悪い時で80枚。150枚なんていう月は、めったにありません。新年度の前くらいで、平均したら80~90枚というところでしょう。僕は書くのが遅いので、絶えず追われ通しです。それに友達と遊ぶとか、いろいろあるもんですからね。

伊藤 主に夜、書きますか。

渋沢 この頃は、夜は疲れて、連想力が非常に衰えるので、やはり朝がいいですね。けれども、朝はまた人が来たり、電話が掛かったりして、気が散ってダメです。夜中が一番いいんですよ。注文がある限り、雑文書きをやっていようと思っています。

伊藤 しかしだいぶ労作だな。

 時にどうです。私らの仕事もいろいろ宣伝しなくちゃならんし、文章形式も新しいものにしたいと思っているんで、あんたに、うんと月給出すから、顧問というか、我々の知恵袋になってもらいたいな。

渋沢 それには僕より、もう少し若い人がいいですよ。時代感覚を掴んでいる若い人に…。

伊藤 あなたは頭は禿げているが、時代感覚は若い人に劣らんですよ。我々は青年秀雄君をいつまでも想像しているんだがね。しかしいくつになりましたかな。

渋沢 数え年で60、満だと待ってください。大事なところだから…1892年生まれですから、来年満60ですね。

伊藤 兄さん(渋沢正雄)は丑でしたね。

渋沢 子です。僕より4つ上です。

伊藤 私より2つ下だった。永野(護)が酉だな。

渋沢 しかし、あんたちっともお変わりになりませんね。

伊藤 どういうものか、子ども子どもしておりますわ。