「蕎麦は技より心だ」と信ずる亭主が5年の歳月をかけて造り上げた店舗で迎えてくれる店。二八蕎麦は十割と見間違うほどの香りを発する。「客を迎えることは物創りへの情熱を伝えること」という亭主が造る渾身の肴で、ゆっくりと日本酒を傾けよう。
50年も100年も客の心に残り、
いつ訪れても満足できる店を造りたかった
山手線内から少し外れるが、京浜東北線の東十条駅近くにこのところ評判を上げている蕎麦屋がある。東十条は北口が賑やかなのだが、「一東菴(いっとうあん)」は、その反対側の静かな南口から2分程度の近さにある。開業が2011年12月だから、半年余りでもう名前が蕎麦通の間に広がったことになる。
自宅兼用の店舗は敷地が40坪。1階の店舗部分は客席と厨房の他、広い製粉室と打ち場からなっている。店舗を含む建物の完成にはなんと5年も掛かったという。
2年や3年を掛けた話は聞いたことがあるが、気の遠くなるような年月だ。コンビを組む女将はきっとやきもきしたに違いないだろう。
「50年も100年も心に残り、客がいつ訪れても満足できる店を造りたかったんです。」
こう語るのは亭主の吉川邦雄さんだ。設計家と長い時間を掛けて話し合い、自分の考え方とすり合せしていった。吉川さんには“なりたい蕎麦屋”のはっきりした目標があったため、そのビジョンが店の造りを通して客の心にどう届くかが最大のテーマだったという。
門構えは木材を多用したどっしりした造りで、店内の造作に期待を抱かせる。入り口には「一東菴」を刻む行灯があり、それは職人が鉄板の叩き出しで技工したものだ。これらは5月にでき上がったものだというから、厳密にいうと全体の完成はまだ進行中だったのだ。
店内に足を踏み入れると、温かみのある木材で満ち溢れていた。こつこつと床を心地よく足音が刻む、その音を柔らかな木の肌が吸収して、訪れる客の心を平安にする。
「木は生きてるんだと思いました。時々、柱や壁がぱち、ぱち、と音を鳴らす。客にもこの優しい木の声が届くのではないかと思う」(吉川さん)。
最近の建材ではもう見られないような太い松材が店の芯柱となって構えている。昔で言えば大黒柱といったものだろう。その柱の横に昔の穀物選別機(唐箕・とうみ)をディスプレイしてあって、蕎麦を一から製粉して、最高の状態で客に味わってもらいたいとの強い意志を感じる。