実際に、度を超えた暴力行為があったとすれば、それは処罰されてしかるべきだが、教育現場ではこの当たり前のことが当たり前ではなかった実態があるという。内藤氏は著書の中で、教師のみならず保護者や地域全体が学校への警察の介入に反対し、いじめを告発しようとする保護者や生徒に対する圧力があった例を指摘している。

 7月14日の中日新聞では、「以前は学校に警察が踏み込むのはいかがなものかという風潮があったが、今は学校だけで抱えきれない問題が増えている」という県教委職員の言葉が紹介されている。

 教育現場に携わる職員らに取材すると、確かに「学校で起こる問題について、できるだけ警察沙汰、裁判沙汰にはしたくない」という声が聞こえてくる。

 これは単に管理責任を問われたくないという利害意識だけではなく、「生徒との信頼関係を崩したくない」「未成年の生徒を警察に突き出したくない」「いじめを含め学校で起こる多くの問題は、どちらか一方だけに過失があるわけではない」など、現場の教育者にしかわからない複雑な心境によるものでもある。

『金八先生』にも見られる学校の論理
神聖な共同体ほど隠蔽工作が容易に

 しかし、内藤氏は「教職員が『良識』から発する『神聖な共同体に法が入るべきではない』という理論を、利害優先で働く人間が利用する。『聖域』であればあるほど隠蔽工作が容易なんです」と言う。

 古いドラマだが、1980年~81年に放送された「3年B組金八先生」の第2シリーズでは、校内暴力の問題に介入する警察が、「教育現場を理解しない権力の象徴」として描かれた。中島みゆきの「世情」がバックに流れる中、校内で連行される生徒たちをスローモーションで映し出す演出が印象的なエピソードで、「教師が生徒を信じなかったら、教師はいったい何のために存在しているのか」という金八先生の名台詞もある。非常に感動的だが、裏を返せば確かに学校は「聖域」として描かれている。

「聖域」でなくなれば、警察は今よりも学校の問題に介入する。

「いじめには暴力系のいじめと、(全員で1人を無視するなど)コミュニケーション操作系のいじめがあるが、暴力系のいじめは『暴力に対しては警察を呼ぶ』という認識があれば止まるはず」(内藤氏)