気候変動がオーストラリアの森林火災の原因の1%なのか50%なのかという激しい論争は、気候変動政治を巡って活動家らがもたらした不毛の極みを浮き彫りにしている。オーストラリアの山火事を食い止めたり、その再発を防いだりできる気候変動対策は存在しない(地球に届く太陽光の一部を遮断する地球工学技術があるなら話は別だが)。気候変動対策とは、われわれが大気中に放出する二酸化炭素(CO2)の量を長期的にどれだけ変化させるかという取り組みだ。そして、活動家らの主張とは裏腹に、実行する価値のあることは実現が困難なわけではない。太陽光発電を支える電池の研究には、すでに十分な資金が投入されている。原子力恐怖症への対応策は容易ではないかもしれないが、問題の多い1970年代の原子炉の設計とは全く異なるタイプの原子力施設の原型の開発には、何十億ドルもの資金が投じられている。これらの原子力施設を同じ部類として論じるべきではない。そして炭素税導入はそれほど困難なのか。何も難しくはない。1つの政党が何か論争になる政策を売り込めば、他の政党はよほどのことがない限り好機を逃さないだろう。バラク・オバマ前大統領は、炭素税の見返りとして共和党に所得減税を提示することはなかった。それは、あまりに多くの彼の仲間が「富裕層減税」に反対することで有利になることを望んだからだ。