余談だが富士通は、富士電機(旧富士電機製造)の通信機器部門が独立した会社。その富士電機は、もともと古河電気工業と独ジーメンス社の合弁会社で、古河の「ふ」とジーメンスの「じ」を組み合わせたというのが社名の由来だ。その意味で“母体”は必ずしも富士山とは関係ないのだが、ファナックはなぜか富士山と縁が深く、富士山麓の山梨県忍野村に本社や工場など主要施設を集約している。筆者も何度か訪れたが、54万坪という広大な森の中にコーポレートカラーである真っ黄色の建物が立ち並ぶ光景には圧倒される。
富士通から独立したファナックで、専務を2年、副社長を1年務めた後、社長に就任したのが、富士通の計算制御部長だった稲葉清右衛門(1925年3月5日~)である。1代で同社を世界トップ企業に育て上げたカリスマ経営者だ。
産業界における存在感と比べて、ファナックは外への情報発信に消極的で、投資家向けにも決算短信や有価証券報告書など必要最低限の開示しかせず、マスコミの取材もほとんど受けないという秘密主義の会社として知られていた。
もっとも80年代には、稲葉はたびたび「週刊ダイヤモンド」に登場し、ざっくばらんにインタビューに答えていた。今回紹介する81年の記事でも、メカトロニクスの過去・現在・未来について熱っぽく語っている。
当時のロボットについて、稲葉は「残念ながら知能ロボットとはいえない。センサーが付いていないから」と話す。そして、「ビデオを小型化し、それに私たちのマイクロプロセッサを結合させる。これがロボットの目になる」と意気込んでいる。実際、現在のファナックのロボットには「iRVision」と呼ばれる“見る”機能が標準で搭載されており、乱雑にバラ積みされた部品でも正確に拾い上げて整列させるといった作業が可能になっている。
さて、稲葉は95年に社長を退き、会長を経て名誉会長となり、“絶対君主”として社内に影響力を保ち続けた。
だが、そんなファナックで2013年6月、奇妙な役員人事が行われた。副社長、専務、常務の全12人が平取締役に降格され、稲葉の長男である稲葉善治社長だけが留任、さらに善治の長男である稲葉清典(当時35歳)を新たに取締役に就任させるというものだ。稲葉による、露骨なまでの世襲人事であることは明白だった。ちなみに設立の経緯から分かる通り、稲葉はファナックの実質的な創業者ではあるが、いわゆるオーナー経営者ではない。
この人事に役員陣は反発、逆に稲葉は連結子会社を含むファナックの全役職を電撃的に解任されてしまった。経営者としての“終わり”は決して輝かしいものではなかった。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)
運命の女神が
ほほ笑みかけてくれた
二十数年前にさかのぼる1956年、富士通内の小さな実験室で、電気と機械の数人の技術者によって制御システムの研究開発が発足した。制御といっても幅が広いが、何をやってもいいということであった。開発責任者に任ぜられた私は、自分の専門を生かして機械技術を基本にしたシステムを考えてみた。
たまたま非常に幸運であったことに、その3年前に米国のマサチューセッツ工大(MIT)が、空軍の要請によって工作機械の新しいコントロールシステムを開発、MITによって数値制御システム(NC)と命名されていた。
これに関する有名な“MITレポート”は、今読んでも、古典的なにおいはあるものの、なお立派な論文である。