人とは違う新しいことに挑戦する若者たち。その行動力はどのような環境で育まれてきたのか。今回は、ユーザーが自身の“遊び体験”を投稿し共有するメディア「PLAYLIFE」を運営する佐藤タイチさん。スパイと音楽家になるという夢から、“本当にやりたいこと”にたどり着くまで、波乱に富んだエピソードが満載でした。(聞き手/ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)
本気で目指したスパイの夢
米国留学先で知った現実
――どんな街で育ちましたか。
札幌と旭川のちょうど中間にある所で、実家はじいちゃんが19歳のときに始めた炭鉱を経営していました。下火になりつつも炭鉱はそれなりに活況で、家も街で一番でかかったですし、政治家の後援会長をしていたじいちゃんを訪ねて、家にたくさん大人が来て、その人たちがお小遣いをくれることは当たり前だと思っていました。
毎週末には、両親と札幌に買い物に行っていたので、小学校に入って、ほかの友達は土日に札幌に行かないことに衝撃を受けました。一人っ子だし、幼稚園には行っていましたが、同世代の友達と外で遊ぶことはほぼなかったんです。
――小学校に上がって交友範囲が広がったわけですね。
はい。放課後、友達に誘われて遊ぶようになって、こんなに楽しいことがあるのかと世界が変わりました。おいしいものを食べたり欲しいものを買うよりも、鬼ごっこの方がよっぽど楽しいと気付きました。
特に、近所にフタグチ君というガキ大将がいて、遊びをつくり出すのがうまいんです。ドロケイに隠れんぼの要素を足してみたりとか、秘密基地を作る廃材を工場にもらいに行こうとか、雨の日には、将棋とトランプにパチンコ玉を組み合わせたゲームを考え出したり……。それがかっこ良くて、俺もこうなりたいと思っていました。
――家での教育方針はどのようなものでしたか。
おやじからは勉強しろと言われたことはないですし、「炭鉱の後を継げ」とも言われませんでした。
自分では小学2年まではなんとなく家を継ぐのかなと思っていましたが、小3と小4ではガンダムのパイロットになりたい、小5、小6では数学や哲学の研究者になりたいに変わっていきました。